“普通”という名の専門性

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“普通”という名の専門性

2010年2月9日


介護に大切なことでよく言われることがある。

『相手の立場に立つ』『共感する』『相手の想いを想像する』『相手の弱さを認める』

どうすればこういうことができるのか?私はこれまで心理学やコミュニケーション技法など色々な面からこのことを考え、これができるようになることを目指し、できることこそ介護の専門性の一つだと考えてきた。
これを行えること、つまり『対人援助専門職である介護職がプロとして、老い、病、障害、その他の喪失体験によって苦悩する弱い利用者を助ける力をどうすれば持てるか?その力とは何か?』というプロ論、専門性論を探していたのだ。

しかし、これがなかなかできない。「ありのままを受け入れる」ということを言葉で伝えたり、身に付けようとすることがいかに難しいかを痛感している。だからこそ挑戦し続けてきた。

今日はそれに対する一つの答えが見つかったので書いてみたい。


私はここ最近大きな壁にぶつかっていた。これまで何事も頑張れば乗り越えられると思っていたが、今回はどうにも乗り越えられない。努力して考えて挑戦すればできてきたことが通じない。

それは利用者との微妙なすれ違いだったり、スタッフ間の意思統一の難しさだったり、すれ違いだったり、外部の方との話し合いだったり、プライベートでもそうだ。人との微妙なすれ違い、気持ちのすれ違いが私の周りにたくさん起きた。なぜだか分らなかった。


利用者との関わりを振り返ってみよう。

私は、利用者のより良い生活を支援するために、専門性を持ったプロの介護職として誇りを持って接してきた。少ないかもしれないが、良かったと思える事例もいくつか作れた。介護職はこうあるべきだ!と発信してきた。


しかし、実際はどうか?


好きな利用者もいれば嫌いな利用者もいる。笑顔で接していながら非言語メッセージは冷たくしている人もいる。悲痛な訴えに対して身に付けたコミュニケーション技法で上手く接して、相手の想いを引き出しながらエンパワメントしつつ、問題やデマンドは何か?ニーズは何か?と客観的に探ろうとしている。その人を「気の毒だ、可哀想だ」と思いつつ、「自分には関係ないこと、自分の身には起こらないこと」とどこかで達観視している。

これは普通かもしれない。しかし「こうしたことは介護職としてはあるまじきことで、そうしてはいけない!」と発信してきただけに、自分の言っている理想像と、現実の自分とのギャップはとても大きく感じた。


そう、私たち介護職は、利用者という弱くて哀れな人を守らなくてはならない、支援しなくてはならない、そういう使命を持ったプロの専門職なのだと信じていた。そしてそんな利用者に寄り添うことこそ一番大事だと信じてきた。

それはつまり、利用者という人を弱者としてその場に押し留め、自分たちは高い位置にいるプロの専門職として彼らを支援する、助ける力を持った強者として君臨することを目指していたのだ。目指していたことはフェアで対等な立場であったはずなのに、実際は上下関係を目指していたのだ。


「違うんじゃない?そこまでじゃないでしょ?」と言って下さる方もいるかもしれない。しかし、私は自分がそうしてきたのだと実感した。

振り返ってみると、対利用者だけではない。スタッフにも、上司にも、家族にも、友人にも私は自分が力を持つことによって人を助けることが良いことだと信じていた。そういう人だったかもしれない。良く言えば正義感と使命感、責任感があるのかもしれないが、それは自分なりの正義と使命と責任を自分なりの方法で押し付けていたことかもしれない。


このことに気付いた時、私は生まれて初めて自分を激しく嫌悪した。自分がこんなにも汚く、エゴの塊で、人を虐げてきたか。そして弱い人間だったのだと感じた。

自信は崩壊し、目標も見いだせず、自己嫌悪に陥り、人が怖くなった。そして自分がしてきたことを振り返り、羞恥心を感じた。自らを責めた。


そして、こんな醜い自分をみんなは笑うだろう。嫌がるだろう。避けるだろう。そう感じた。



『孤独』というものを生まれて初めて感じた。




現代はうつ病が流行っている、誰にでも起こり得ると以前新聞で読んだ。
「自分には絶対起こるはずがない。うつ病なんてなる人は弱い人だ」と思っていた。

今、うつ病になるという人の気持ちがわかった。



ここ一カ月は記事を書くのも辛かった。何せ自信が無いのだから。




そして、今。


私は目の前の霧が晴れて、清々しい気持ちにある。


どうしてか?


本を読み、同じように苦悩する古今東西の人たちの想いを知った。同じように苦悩する人の気持ちを聞いた。同じように弱かった人たちに相談に乗ってもらった。愚痴をこぼした。


初めて弱い自分をデジタルではない生身の他人にさらけ出した。


そう、自分は強固で頑丈で立派な自分の城を築きあげ、そこに立てこもりながら自分の正義を声高に叫んでいたにすぎない。しかし、その城はもろくも崩れ去った。崩壊する城の中で自分の弱さを嘆いた。

今、何もない更地に私は立っている。何も持たず守る術もない、弱いたった一人の自分だ。しかし、そんな自分で良いのだと思った。

自分の弱さと向き合い、受け入れて、認めること。こんなにも大変な作業だと思わなかった。しかし、認めると気持ちが楽になった。世界が違って見えた。本当に世界が違って見えた。どこかで聞いたセリフだが、こんなことが本当にあるのか、と驚いた。


見回してみると、私と同じように城を一生懸命築こうとしている人もいれば、更地に立ちながら多くの人と一緒にいる人も見える。自分は今1人になったと思ったが、城の城壁が無くなったので、案外大切な人たちや応援してくれる人はすぐ近くにいることを知った。



利用者や意見が合わない同僚、看護師、上司・・・

相手の立場に立てない、相手の気持ちがわからない、その人の弱さを認められない、ありのままを受け入れられない。


当たり前かもしれない。みんな怖いんだ。自分の弱さをさらけ出すことが。

だから、城を築いてそれでやっと向き合おうとすることができる。でも、頑丈な城が迫ってきたら、相手もせっせと城を築くものだろう。


「まずは自分から相手に向き合う」

私は過去の記事で書いたかもしれないが、上辺の綺麗事だったのだと思う。これはそんなに簡単なことじゃない。苦しく辛い作業。自分の弱さと向き合い、受け入れ、認め、さらに人に差し出すことはとても難しい、怖いことだ。時には、その過程で奈落の底に落ちることもある。

しかし、確かに、このことはそれだけの価値がある。



私が最近読んだ数冊の本にヒントとなる文があったので、私なりの解釈と言葉で書いてみる。

『社会、文明、自由を手に入れようとする中で、人は共同体を無くし、個はバラバラになった。そして現在、歴史上で最も人は孤独を感じている』

そして、相手の心を知りたい、自分が何者かを知りたい。そんな衝動に駆られている。


『人の弱さを受け入れる』ためには『自分の弱さを受け入れる』


介護という仕事、向き合う利用者は現代人が一番求めている「孤独から抜け出すこと」の一つの答えを教えてくれる。

利用者も自分も、みな弱い。だからつながりを求めている。そしてつながった時に強くなれる。

みんな同じである。そう、みんな“普通” なのだ。しかし、その“普通”を認めることがとても大変なのだ。


私は今回の経験を踏まえて、あえてこの“普通”になることを“介護の専門性”の大切な要素の一つだと訴えたい。
専門知識技術が必要不可欠であることは変わりない。しかし、それを使いこなす介護職の“普通”こそが介護を仕事として担う人にとって大切な力であり、現代においてはこのことすら専門性と呼ぶに値する程“稀”な素質である。しかし、“稀”であると同時に“誰もが持ちえる資質”でもあるのだ。



これを踏まえて今後も介護の専門性を新提案していきます!どうぞよろしくお願いいたします!

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ども。
非常に共感します。
みな、いっしょですねよ、ほんと。
すっぱだかのフルチンになれば、みんな、か弱き裸のサル。
つくづく、そう思います。
Posted by ファイトほんま at 2010年02月09日 16:43
専門性かどうかは別として(まぁ、違うと思ってるんですが・・・)、自分が一番大事だと思っていることは、「相手を好きになる」ことです。

>好きな利用者もいれば嫌いな利用者もいる。笑顔で接していながら非言語メッセージは冷たくしている人もいる。

これは努力や責任感、職業倫理でどうにかなるものではない、と自分は考えています。どうにかなっているように見えるとしたら、それは「とっても演技が上手な役者」でしかない、などと極端なことを考えてしまいます。もっと極端に言えば、相手を騙しているのと一緒。

じゃあ、嫌いな人、好きになれない人、苦手な人はどうすればよいか?

自分は、「他の人に任せる」です。相性ってあると思いますし、仕事だからって無理して接していても、その無理は必ず綻びがくる。それに、一歩ひいて相手と接すれば、そんなに無理する必要もなくなるし。

ただ、そうやって利用者さんを選り好みし続けていて良いはずがありません。ですので、「人を好きになる」ことが大切なんです。そして、そのために自分の人間性を磨く。キャパシティを広げられるように。

自分はそれが大事、この仕事を続けていく上でしなければならないことだと思っています。
Posted by gitanist at 2010年02月09日 21:14
素晴らしい自己開示ですね。
kinsanの文章は感情がのっかっていて(熱っ)、我がことと思い違うほど気持ちが伝わることがあります。
みんな〜同じ〜♪生きているか〜ら〜♪
なかなかできないこと→「(すべてにおいて)これでいいのだ〜と思うこと。」
※バカボンがすごいということではありません(^-^)

Posted by YUKARI at 2010年02月09日 21:55
ファイトほんまさんコメントありがとうございます!

社会、文明、豊かさ、利便性、効率性、合理化、生産性、競争、グローバル・・・

私たちの今の生活には無くてはならないものです。これらを手放すことなんてできません。裸のサルに戻ることは現代人にはできません。

でも、失いかけているものがある。そのことによる不自由さを誰もが感じだしている。それならば、裸のサルに戻らずとも、裸のサルが持っていたものを思い出し、それに触れるだけでも大きな意義があるのかもしれません。

介護という仕事には、それに触れる可能性が多分に秘められていると私は確信しました。
Posted by kinsan at 2010年02月10日 07:15
gitanistさんコメントありがとうございます!

gitanistさんとの違いがあることいつも嬉しく思います。違いがあるからこそ人は人に惹かれ、補い合い、支えあえるのでしょう。

私はこれまでプロ論、専門性論によってその苦手な人ですら支援できることを目指してきました。しかし、それは自分自身の身勝手な想いを押しつけていたことであり、おっしゃるように、騙していることだったかもしれません。

しかし、相性で片づけられては社会の納得は得られないでしょうし、専門職としての存在意義にかかわってくると思うのです。

その打開策がgitanistさんのおっしゃる「人間性を磨く」なのだと思います。他にも「感受性を磨く」「感性を磨く」「いろいろな経験をする」と表現される方もいました。
そうだなぁと思いつつ、私はイメージしづらかったのです。いくら感受性や感性が磨かれても、同じような病気、障害を負う経験をしても、その人を理解するなんてできないよなぁ???と・・・


それが今回の経験を通じて、人は弱く、それが普通であるという普遍的なことを体験したことで、個別の理解ではなく、万人共通のこと柄から理解できるのではないか?と考えました。

つまり、苦手な人だけど、自分と同じように痛みと弱さを抱えているのだなぁという理解からです。これは単に個人に属する生活歴や想いによる理解ではなく、自分と同じだという共通的視点からの理解なので、同じようで全く違うレベルの理解になると思います。

文章だけのご説明では難しいですね。ごめんなさい。

これって、私の中では立派に専門性だと考えています。普遍的だから根本的には誰もができるものですがね。今の時代だからこそ、専門性になり得ると思うのです。
Posted by kinsan at 2010年02月10日 07:27
YUKARIさんコメントありがとうございます!

なるほど、自己開示ですね。私は自己覚知だと思っていましたが、こうしてみなさんに公開している時点で自己開示になりますね。足元を照らしてくださるようなご指摘ありがとうございます!

体験したのでこのことはなかなかできないことだと言うことができます。しかし、誰でもできることなのだとも同時に思いました。ただ、助けが必要です。多くの助けが必要かもしれませんし、たった一人の助けに救われる人もいるかもしれません。

みんな同じ・・・この一言ですね。反対の賛成なのだ♪
Posted by kinsan at 2010年02月10日 07:31

非常に深い深い記事ですね。

「人を助けることが良いことだと信じていた。」

良いことですよ。ずいぶん沢山のひとが救われているのではないでしょうか。

普通、普通のひとは自分のこと自分の家族のことを考えるだけで精一杯ですからね。

助けてやってください。

あなたのような方のそばで、関わっている スタッフ、ご利用者さんは

本当に幸せです。





Posted by 忍町 at 2010年02月13日 05:38
忍町さんコメントありがとうございます。

おそらくですが、人を救うことはしていたかもしれません。

ただ、自分は救えていなかったのかもしれません。

自分を救えず、人を助けていると思っていたことが恥ずかしいです。

自分も人に助けてもらっていると、上辺でなく心から思った時、何かが変わったんです。

悩んで良いと思います。悩み続けることが私の生きている証になるのだと思います。

私もみなさんに囲まれて幸せです。

ありがとうございます!
Posted by kinsan at 2010年02月13日 19:56
ご無沙汰しております。
いつもながら、考えて発信しておられますね。

kinsan、こういうのを「丸くなる」と
いうのかもしれないですね。

だからこれからは
もっといい仕事ができると思います。

頑張ってください。
いや、十分頑張っておられると思いますから、
もうちょっと力を抜いて、
のほうが良いかもしれませんね。

野球のピッチャーだって、
力んで投げるより、
少し抜いた方が
早いボールが投げられるんですから^^v
Posted by 田中大造 at 2010年02月18日 15:22
田中大造さんコメントありがとうございます!

ご無沙汰しております。同じお言葉を昨日ある方から頂戴しました。自分でも角が少し取れたかなと感じております。

今、その丸みを帯びた私に何ができるかを考えて、行動しようとしております。記事の更新が若干追いついておりませんが、気長にお待ちください。

ありがとうございます!!
Posted by kinsan at 2010年02月19日 08:10
こんばんは、金山さんが提唱している「介護の専門性」って一体何だろう?
そう思ってブログを読んでいて、ここにたどり着きました。
まさに、この記事の前半で金山さんが自戒されていたことを、私は勝手に危惧していました。
「専門性、専門性」で、金山さんが難しい人になっていったらヤダな〜。

普通、ナチュラルでいることはかくも難しく、しかし実現できればとっても清清しいこと!
安易な憐憫ではなく、プロフェッショナルに相手と同じ目線。
真夜中に嬉しくなる文章をよみました。
Posted by 管 偉辰 at 2010年07月24日 01:59
管偉辰さんコメントありがとうございます。

専門性という言葉に対して、普通は私たちは一般人が持ちえない知識や技術を有して、それを使いこなせるというイメージを持つと思います。

しかしながら、介護とは絶対的な正解がない分野。また、いかに知識技術を有していても人間性や個性の部分だけで対利用者にOKを出してもらえることもあるなど、従来の専門性とは質的に異なるものかもしれません。

知識技術を有し、それを高度化することは従来の専門性の追求といえますが、介護の専門性とは言い難い。

しかし、だからこそこの人間性や個性なる部分を専門性として内包して訴えることができないかと考えるようになりました。

新提案という部分はつまり、介護の新しい専門性という意味よりも、専門性という言葉自体に新しい意味を提案するというニュアンスが強いかもしれません。

で、肝心の中身は・・・・ライフワークですねf^-^;
Posted by kinasan at 2010年07月24日 07:39
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