介護の“専門性を新提案”する

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介護の“専門性を新提案”する

2010年8月7日


ブログのタイトルが『介護の専門性新提案』なので、私はずっと「介護の専門性ってなんだろう???」と考えて日々すごしている。書籍を読み、出会う方々や研修講師の方に「介護の専門性ってなんだとお考えですか?」と尋ねている。そして、現場で利用者と触れ合いながらその意味を探している。


さて、今日はそもそも“専門性”とは何か?ということを考えてみたい。そこから“介護の専門性”を考えてみる。
そして、何故“新提案”なのかを書いてみたい。


※今日は長文です。ごめんなさい。


専門性については100年くらい前から多くの研究者によって研究されている。
『奥田いさよ【社会福祉専門職制の研究】川島書店、1992年』の論文では研究者によって専門性に必要な項目が列挙されている。

研究者名『フレックスナー、カーサウンダース、ブラウン、リーバーマン、グリーンウド、エッチオーニ、ミラーソン、バーバー、スローカム、ムスグレープ』

彼らの研究で『専門性、専門職等に必要な概念や条件』を見てみると次の項目が挙げられている。


@知識、技術、理論
=職務遂行上活用できる知識技術体系、科学的研究、高度な知識等

A教育
=学習が可能であること、特別な技術の習得と専門的訓練

B専門職団体
=職能団体、組織、自治組織

C倫理綱領
=専門職の倫理規定

D公益性
=サービスが公衆のためであること、利他主義

E公的資格、権限
=専門職としての地位、権限、資格試験に合格すること

F社会的承認
=パブリックによる承認

G自律性
=専門職の自律性、実践の自由


なるほど、この@〜Gがあることが、一般的に『専門性がある、専門職である』と定義できる条件だ。確かに、医師や弁護士等を考えるとこれらの条件がそろっていると言える。


さて、では介護はどうか?

@あるにはある
A専門職の養成校が存在している
B専門職団体はある
C倫理綱領もある
Dとっても尊い仕事だと思われている
E国家資格がある
FEと同様で承認はあると思われる
Gあると思われる


研究者の条件にあてはめて考えると、介護に足りないのは@『知識、技術、理論』だと思われる。これは無資格者でもできる(実質的に行っている場合がある)ことや業務独占ではないこと、有資格者よりも無資格のボランティアさんの方が良い介護をしたりする場合がある、などがその理由だ。


普通世間一般の人からすると、専門職・専門性に対して持つイメージは「一般人が持たない高度な知識や技術を持ち、それを活用できる」ではないだろうか。
また、研究者たちもそれぞれ『知識・技術・理論』の必要性を重要な条件として挙げている。


そう、つまり高度な知識や技術、理論があることが専門性の第一条件なのだ。



そして、介護業界はどのような道を歩んでいるかを見てみる。

専門性の追求のために『高度な知識・技術・理論』を構築しようとし、科学的根拠づけをしたり、研修によって新しい知識・技術を身につけたり、新しい資格制度や研修制度の創設によって@を高めようとしている。

この流れは看護師のそれとほとんど同じだ。歴史を紐解いてみると、医師の下で働く看護師はその専門性の追求過程で高度な知識技術を習得し、新たな資格創設などによって現在の社会的地位を築いていった。
介護もその流れを追うのだろうか?



さて、こうした介護の高度な専門知識・技術・理論の追求、新たな資格・研修制度の創設の流れは止めることはできない。私も、より高度な知識・技術・理論を持ち、利用者や家族、地域のために介護が専門性を持った職として昇華していくこと自体に対して異論は全くない。


しかし、介護はこれまでの専門性とは異なる専門性を持つべきと私は考える。

こんな例え話がある。。。


≪専門家は強力な一つのハンマーを持つことを許される。
そのハンマーによって飛び出た釘を打ちつけることが可能になる。

しかし、専門家はハンマーを持つことでハンマーを使うことしか覚えなくなる
いかにハンマーを磨き、より強力にしたところで
曲がった釘を打ちつけることはできないのだ

それでもなお、専門家はハンマーを打ち続けるしかできない
何故なら、そのハンマーを手放すことができないからだ≫



引用元を忘れて申し訳ないが、どこかで読んだこの例え話は、高度な知識・技術・理論を持ち、それを昇華させていく専門職の落とし穴を言い当てたものだ。@の追求はこの落とし穴に陥りかねない。

かつて(現在も?)医療職がこの落とし穴に落ちた。そして患者不在の『白い巨塔』が生まれた。しかし、今その流れがインフォームドコンセント、セカンドオピニオン等の導入によって少しずつ流れが変化している。
医療職が対人援助職としての振り子を戻す動きをする中で、介護は遅れた分@を追求することで落とし穴に落ちることは無いだろうか?それを私は懸念している。



このような落とし穴に落ちないために専門職には『倫理綱領』がある。また介護(福祉)でいえば『バイスティックの原則』や『ノーマライゼーション』、最近では『パーソンセンタードケア』等の考えも浸透してきている。
制度的なことでいえば『成年後見制度』『権利擁護』等もある。

しかし、これらはあくまでも外枠での“ルールや考え方”でしかないのだと私は考える。



ここからが“新提案”である。


そもそも、介護は業務独占にすべきでは無いと私は考えている。だからこそ、いかに@を高めようとも既存の専門性の条件を満たすことはできないのではないか。
しかし、@と並列で大事なことがある。それを追求することで介護は他の専門性とは異なる新しい専門性として確立できるのではないかと考える。


介護が他の専門職と一線を画し、@の追求による落とし穴に落ちないために“ルールや考え方”以上に大事なことがある。

研究者が挙げた条件には無いものがある。

それは“人が本来が持っているもの”である。



相手に対する『心』である。


つまり、その人の存在、生命、生活、人生に寄り添わせていただき、自分の存在を通じて相手を助け、支え、時に相手に支えてもらう立場になることで生を共に分かち合おうとする原動力である。
相手の可能性と未来を信じ、同じ人として関わり、共に喜怒哀楽を分かち合い、生きようとするもの。。。『心』である。




心という表現が正しいか分からないし、伝わらない方は伝わらないと思うので、私の『心』の概念に近い言葉を列挙する。あなたの中でピンとくる言葉があるか、なければ一緒に考えて頂けたら嬉しい。


人間性、隣人愛、良心、誠実さ、博愛、マズローの自己超越欲求・愛情欲求、脳科学による他者への共感、フロイトの超自我、トランスパーソナル心理学、互助・共助の精神、慈愛、武士道の仁・誠、道徳、常識、思いやり、興味関心、優しさ、・・・


この抽象的で曖昧な概念がある故に、介護は難しく、面白く、現代社会に枯渇している人とのつながりや生きる、死ぬということに関わる醍醐味を味わえる。
そして、これが無いと、介護の専門性は専門性とは呼べず、また他の専門職のような“高度さ”による専門性も獲得できない曖昧な地位に留まるだろう。

こんな『心』という今までの条件に無かったものが必要な専門性が新しく生まれている!!
だから私は今までの専門性とは違う専門性を“新提案”したい。




今日は長文ご容赦ください。



さて、ではこの『心』なるものを専門性に必要な条件と挙げるならば、どのように身に付ける、または目覚めさせるのか?

これに必要なのは

1.『現場教育論』
2.『ケア観の対話』


だと私は考えている。


最初の『現場教育論』とは???

知識・技術・理論は外部研修で良いかもしれないが、『心』は現場の利用者との生々しい関わりから学ぶのが一番である。

振り回す利用者、わがままを言う利用者、死にたいという利用者、ありがとうと涙する利用者、死に際に命の炎を燃やして見せてくれる利用者、何も言わずに二度と会えなくなる利用者、修羅場の中でボロボロになる家族・・・

彼らとの関わりで私たち介護職が感じる様々な感情、恐れ、喜び、悲しみ、逃げ出したくなる気持ち、無力感、虚無感、痛み。。。

それらをひとつひとつ介護職の中から引き出し、職場内・チーム内で共に分かち合い、それでもなお私たちは人に寄り添って生きていくということを見出していきながら『心』を育てるのだ。介護職一人ひとりが本来持っている『心』を揺さぶり、目覚めさせるのだ。


そのように『心』を育てるための現場教育論が介護業界には無い。@の追求に終始し、しかも@は外部研修でまかなおうとしている。確かに、社内で@の教育は困難な面がある。しかし一番大切な『心』の学び舎が現場にあることを忘れてはならない。


ご存じだろうか?

今から25年前の標準看護学のテキストが手元にあるのだが、この中で看護の概念、対象、実践等と並んで『看護教育』に関する章があり、その中で、看護教育の養成機関での教育“卒業後の現任教育、院内教育”に関する項目が存在している。
総論のテキストに教育に関する章があるのは特筆すべきだ。介護概論のテキストにそのような章は無い。また、看護は『看護教育学』という分野まである。

もちろん、介護も実習指導員養成などもあるが、現場の現場による現場のための『心』を育てる教育論が無い。
介護は『心』を育てるための『介護現場教育論』が必要ではないだろうか?



次の『ケア観の対話』とは???

私の主催している『Linkスペース』の趣旨の一つであるが、介護業界は絶対的な正解が無いために、それぞれの人生・価値観によって培われたケア観が衝突を起こしやすい。
しかし、それぞれが持つケア観に歩み寄り、互いに『利用者のため』というミッションのために集う目的集団とならなければならない。

このケア観の対話はコミュニケーションスキルに属しているともいえるが、何故そこまで異なるケア観を持った人々と対話して分かち合おうとしなければならないのかを考えることが必要だ。この点はまた今後書きたい。



少し長くなってしまったが、介護の専門性は既存の専門性の条件に加えて人が本来持っている『心』というものを身に付け、それを磨いていくことで、初めて知識・技術・理論が活かすことができる。それは、これまでの高度な知識・技術・理論を持ち、一般人にできないことができる専門性とは異なる新しい専門性として確立することができるであろう。

そして、その『心』をそだてるために『現場教育論』や『ケア観の対話』が必要なのだと考える。



※それ以外にも、チームマネジメントなども専門性を持つ介護職の力や存在を発揮させるために必要な事柄だと考えているが、それはまた今後・・・


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この記事へのコメント
結局、一番大事であり、行き着くところはそこなのかな、と。

kinsanは、小難しいことを考えているようで、そういう大事なところを見失ってないところがいいと思っています。

ケアマネの更新研修なんかでもそうなんだけど、やたらと『困難事例』ってやりたがるんだけど、自分は「違うだろ〜」と思っているんです。

必要なのは困難事例でなく、『感動事例』だと思うんですよ。そして、日々の業務に追われて見失いがちな、『初心』を思い出させること。

どんなに知識や経験を身につけても、この根本となるところがしっかりしていないと、kinsanの言う、『ハンマー』と一緒になりかねない。

9月のLinkスペースも楽しみだね〜♪
Posted by gitanist at 2010年08月08日 14:03
gitanistさんコメントありがとうございます。

何を隠そう、私の出発点はgitanistさんのおっしゃる『大事なところ』なんです。どうすればこの大事なところをみんなに伝えられるか、そしてそれが社会的に認められるか?

最大の関心事は、その大事なところをどうやったら介護の専門職として身につけることができるか?ということです。


大事なところは諸先輩方が感動のお話や数え切れない実例、エピソードで語ってくださっていると思います。しかし、普通一般の人や社会にわかってもらえるような価値を彼らに伝わる言葉で伝えられなければいけないと常々考えています。だから、小難しく考えてしまっているのかもしれません。

私の外資系の友人に「心?え、そんなもんじゃ、飯は食えないでしょ?福祉って所詮経済の恩恵を受けているだけのものだよね。余剰だよ余剰」と言われたことが原動力です。

彼は冷たいのではなく、福祉はまだまだそのような位置づけだと思うのです。そんな彼らに伝わる言葉、実例を私は重ねたいと思うのです。


“心を育てる”現場教育論は本当に今後必要になってくると思います。

Linkスペース楽しみにしていてください!
Posted by kinan at 2010年08月09日 08:03
介護の専門性について
プロの介護とアマチュアの介護が同じ
プロとしての専門性がまったく見えない

プロが介護すれば
ADLやQOLが向上する
誰が見ても
この要介護者はプロが介護している
この要介護はアマチュアが介護している
とわかる結果が必要ではないだろうか

どんな状況でもどんな利用者でも
同じ結果が見えるのが
プロの仕事だと思う

Posted by 悩む施設職員 at 2010年08月13日 00:19
悩む施設職員さんコメントありがとうございます。

専門性について評価の『可視化』と専門職アプローチによる『再現性』の必要性ですね。

プロがやったから確かに結果がでた。ADLやQOLが向上したという評価が客観的にみえること。

専門的知識技術、アプローチによってかかわったことによって、その手法を身につけたら一定の結果が得られるという専門的要素。

この二つは私も確かに必要かと思います。


しかし、なかなか難しい。

前者はQOLを数値化するという試みがアメリカで行われていると聞きます。具体的内容は存じませんが・・・

再現性は現在の研修ブームによって知識技術の習得によって一定の効果が表れるかもしれません。

しかし、『研修で習ったことを現場で活かせない』という声が多いように、外部の持ち込み以上に、内部の変革が行われるべきだと私は考えています。そのために、ケア観の対話や、現場で心を育てる教育がおこなわれることが必要なのだと思います。

専門性の追求については課題が山積していますが、一つ一つ取り組むことが今の現役介護職である私たちの使命なのだと考えています。

ありがとうございました。
Posted by kinsan at 2010年08月13日 08:40
介護の専門性について
1寝たきりを無くす介護
2トイレ排便の継続 『オムツ 0 の取り組み』
3経口摂取の継続 『経管栄養 0 の取り組み』『経口移行』

4浴槽での入浴 『特殊機械浴 0 の取り組み』

5歩行能力の改善 『車イス 0 の取り組み』

6脱水状態の改善

7認知症の改善

この7つの取り組みが 介護の専門性を客観的に分かり易くする 物差しだと思ってます
Posted by 悩む施設職員 at 2010年08月14日 21:59
悩む施設職員さんコメントありがとうございます。

7つの取り組みのご紹介ありがとうございます。確かにこれらの枠組みで一定の専門性を客観的に評価することは可能でしょう。

しかし、これだけではないはずですし、これだけで評価しきれるものではないと私は思います。

1、寝たきりではなく、寝かせきりを無くすことだと思います。しかし、人は臥位になっていくものです。

2、在宅独居で自力でトイレへ行くことが困難な方、誰も関われない時間の排泄、その時にオムツがどれだけその人の衛生と、住環境と、尊厳を守るでしょう。オムツは悪ではないと思います。

3、胃ろうになっても、経管栄養になっても『生きたい!』という本人、『生きてほしい』という家族の願い。食事が口からできることは何より大切だと私も思いますが、食べてそして『何のために生きるか?』という生きる意志がなければ、動機づけができなければ、経口摂取も意味がありません。

4、機械浴ではないかもしれませんが、生活保護で要介護5で独居の在宅生活者にとって、訪問入浴は入浴だと思います。

5、できるだけ車椅子にしないようにすること、大切です。しかし、私たちの働きかけで歩けるようになった利用者。嬉しいです。しかし、家族が「勝手に歩き回るから負担が増えた!歩かせないでくれ!」と言われ、家族負担が増し、本人に当たるようになってしまう。それでもなお、歩けることのみが私たちの専門性でしょうか?そして、なにより人は歩けなくなる日がきます。

6、これは大事ですね!!

7、これも大事だと思います。ただ、病状によっては根本的治療が無い認知症は、現状維持か緩やかな進行に留めることはできても、改善は難しいと思います。ただ、ケアの方法によって症状が悪化しているのであれば、改善の余地はありますね。


私も悩む施設職員さんのように考えています。1〜7を客観的指標として考えることもありますが、多くの現場、自分の知らない領域、在宅〜施設〜療養型〜終末期、訪問、デイ、特養、たくさんの現場があります。その中で1〜7だけで介護の専門性を示すことはできないと、私は色々な方々のご意見をいただいて知るようになりました。

1〜7も私の個人的意見だけではなく、色々な方々のご意見や見た現場の光景、現行制度の限界などからも考えることです。

しかし、それでも1〜7への取り組みを行うこと自体は大切なことだと思います。
Posted by kinsan at 2010年08月15日 08:59
今回のテーマに共感できる部分と違和感を感じる部分があり、コメントはしたいもののしばらく考えていました。職場の同僚にも考えてもらいましたが、うまくはまとめれていません・・・・。
「生活」という言葉を忘れないでほしい。と思います。
在宅、施設その他でも私たちが対象としている方々はその場所で人間として生活しているのです。介護「生活支援」という大きな専門性があるではないですか!!
生活というと人それぞれで活動の場も広く、場面もさまざまでわかりにくいかと思います。
皆さんが専門家とアマチュアの違いをきちんと可視化できるようにという気持ちもわからないではないですが、在宅で暮らされている方で介護の中心はご家族で中には施設の職員よりきちんと丁寧に介護されている方は多くいらっしゃいます。
「知識、技術、理論」「ケア観」をもって「観察する目」が専門性を明らかにしていくものと私は思っています。それには「経験」をつむことで養われているなぁとうちのスタッフを見て思います。 介護の専門性が活躍する場面は幅広いのでその場その場に応じて状況を理解した上で、自分の立場、行動を変えれることも大事ですよね。
やっぱりまとまらないのでごめんなさい。
kinsanの「心」という部分は是非皆さんが自分の「ケア観」の中に忘れずに入れておいてほしいと思います。

私は老人保健施設なので、在宅支援、在宅復帰、ターミナル期とさまざまな場面、人に遭遇できていますが、「介護」の場面はさまざまで一言では語れず、その場その場に応じて自分の「ケア観」に基づきながら活動しています。
残念なことに「利益重視」になって、「その人にあったケア」を忘れている他施設の方に会うことが多く利益も必要なことはわかっているものの悲しくなっているおばちゃんです。
うまく自分の思いが伝えられないですが、またにします。
Posted by yayo at 2010年08月18日 09:04
yayoさんコメントありがとうございます。

熱く伝えたいであろうメッセージが響いてきます。

私もyoyoさんのおっしゃるように介護が展開されるだけで十分だと思うこともありますし、それこそが介護の真理だと思います。もっと言ってしまうと、ケア、人が生きていく上で当たり前の真理です。

ただ、現代社会で、制度の中で理想だけではいけない、しかし、その理想を見失ってはもっといけない。私は、伝えたいのです!同じ業界の人だけでなく、介護やケアに関わりのない人にまで。

ですから小難しく考えてしまいます。

でも、言いたいことは多分、人に心から寄り添う真のケア(専門職によるものだけでなく)が広がり、その中で、それを労働として行う私たちが存在するということなのです。

私もあまりまとまらずごめんなさい。文字だけでなく、直接対話できたらよいですね。
Posted by kinsan at 2010年08月19日 16:20
私のまとまらない文章から色々読み取っていただきありがとうございます。

kinsanの言いたいこと「人に心から寄り添う真のケア」というのは理解できます。
kinsanのブログを読んでみました。世間の人は「介護」や「死」ということと向き合うことを避けているように思います。誰だって要介護状態になる可能性はあるのにね。

しかしながらメディアでは最近「死」とか先日の7月25日ETV特集では「胃ろうについて」の賛否両論が取り上げられていました。介護や死生観を考えないといけないことは徐々に広がりつつあるのだなぁとも思います。でも誰にでも平等に「死」はやってくるから真剣に考えておく必要はあるのに
なかなか自分のこととは思えない人が多いですね。

今後うちの施設の家族会にETV特集をとりあげてみようかなと思っています。
まずは職員、ご家族からいろんな問題を考えていただければと思っています。地道に活動していきます。

ちなみにまた研修に行った際、特別養護老人ホーム、老人保健施設などの職員さんが参加する中でまたこのサイトを紹介しておきました。(笑)

またコメントさせていただきます。
Posted by yayo at 2010年08月22日 10:44
yayoさんありがとうございます!

サイトのご紹介まで感謝感激です。ありがとうございます。

死や要介護、だれしも『人ごと』『まさか自分はならない』と思っています。

それはもちろん私も。

考えなければいけない、真剣に向き合わなければいけない。普遍の真理だから。

でも、やっぱり『自分には起こらないだろう』

そう考えるのも、また人間の普遍の真理かもしれませんね・・・
Posted by kinsan at 2010年08月24日 23:02
 その人らしさを大切にし、根拠のある生活支援をするのが、介護の専門性。
 マネや繰り返しではなく、その時その人への適したケアを考えて実践できるのが、専門職としての介護だと思う。

 医療は傷病の治癒や死が終着であるが、介護はその人らしさや生活の質を追求すると、果てしなく奥が深い。正解は一つではいけれど、間違いも一つでは無い。また、正解や間違いが無い場合もある。

 生きる活動への支援が、介護の専門性であるが、ADLが自立している自分でもなかなか質の高い自己実現を感じられる生活ができていないことを考えると、他者の自立支援や生活の質の向上にかかわるのは誰でもできることではない。

 
Posted by バーチャ at 2010年09月23日 19:22
バーチャさんコメントありがとうございます。

おっしゃる通りだと思います。

ただ、

>介護はその人らしさや生活の質を追求すると、果てしなく奥が深い。


これは介護の専売特許ではなく、むしろケアとしての出発はまぎれもなく“看護”にあると私は考えています。ですから、これこそが介護の仕事で、ほかの職種はこの領域を担えない、または担わない存在として考えるのは危険ではないかと思います。

介護士はまだまだ「生活を支援する」という点においても基礎的看護教育を身に付けた看護師には及ばないのではないかと考えています。

絶え間ない自己研鑽が介護には求められますね。ありがとうございます。
Posted by kinsan at 2010年09月25日 08:38
はじめまして、福祉のサイトを見ていたらここにたどり着きました。

私は事務機などの営業をしています。

文章を読ませて頂きました。

私の意見、質問を書かせて頂きます。もし不愉快な思いをされたらごめんなさい。

1質問

 (1)高度な知識とは、具体的に何ですか?
    (たとえば看護師、医者、などは診察、手術などをするための医学を学んでいるのだと想像出来ます)

 (2)老人ホームでの専門技術とは?これも具体的に何でしょうか?

 (3)今後の新しいケアとは?

 (4)利用者と言うのは、老人のことですか?

 (5)研究者が、外国の方でも、今の日本の年寄りの参考に成るのですか?

 (6)一般人には出来ない事とは何ですか?

 2私の意見

 (1)共に喜怒哀楽を分かち合い、生きようとするもの。。。『心』である。

    と言うのは分かりますが、年の近い部下と共に喜怒哀楽は分かち会えません、家族と分かち
    会おうとがんばって、がんばって何年も一緒に住みやっと、少し分かち会う事が出来ます
    私は老人ホームに入って来た人と共に喜怒哀楽を分かち合い、生きようとする。
    など無理だと思います。

    ただ仲良くなり、気軽に話が出来る。程度なら分かりますが...

 (2)介護職員が本来持っている心を目覚めさせるとありますが、理解できません。
    人の心を目覚めさせることとは=心を目覚めさせて、同じ考えを持って
    一緒に働きましょう!
    と言うことと私なりの理解をしますと、そんなことが出来ればどんなに落ち込んでいる
    会社であろうと立て直せます。


   最後にお金を儲ける事が悪いような雰囲気があるのであれば、私は間違えだと思います
   以上 一サラリーマンの意見です。

   ご回答いただけるのであれば、うれしいです。
    
    

    
Posted by 一般人 at 2010年11月14日 10:58
一般人さん、コメントありがとうございます!

業界外からのシビアな視点、素朴なツッコミ、とても感謝いたします。私の記事はしょせん井の中の叫びでしかありません。一般人さんのような方からのご意見によって、再度考える機会を頂きましたこと本当に嬉しく思います。


はじめに申し上げますが、満足にお答えできない点も多々あります。それはそれだけ私の考えが浅い証拠です。その点はご容赦ください。しかし、このことを踏まえてまた新たに、深く考察を進めることができるのだと思います。

1質問について

(1)高度な知識とは、具体的に何ですか?
→例えばコミュニケーションスキルはいかがでしょうか。認知症の方、視覚、聴覚等に障害がある方等、または人間不信に陥っている方、アルコール依存の方、精神疾患の方等、様々な人に対して、適切なコミュニケーションを図るための知識の保有は高度だと考えます。現実の介護職は私も含め、それほど高度な知識を持ち合わせているとは言い難い状況であることは残念ですが。
また、私は個人的にコーチングやNLPというコミュニケーションスキルが介護業界でもっと活用されるべきと考えています。これらは数十万単位の料金によって身につけられる方もたくさんいらっしゃり、十分に高度な知識と言えるのではないでしょうか。

他にも、医学、生理学的な学問的知識は介護職も学ぶべき高度な知識であると思います。情報社会になり、検索をかければ一瞬で知識が手に入る時代です。高度な知識とはそのものの保有以上にそれを活用できるかどうかが大事だと思います。

(2)老人ホームでの専門技術とは?これも具体的に何でしょうか?
→私は老人ホームと呼ばれる形態の現場に務めたことが無いので、詳しく言及はできません。ここでの専門技術は、三大介護と呼ばれる食事、排泄、入浴を介護保険で謳われている「尊厳、自立」などを落とし込みながら展開できることが求められます。
他にも上記のコミュニケーション技術、その他の技術が求められて然るべきと考えます。


(3)今後の新しいケアとは?
→こちらは最新の記事に書いてみましたが、介護の心と呼ばれるものを一つずつ解体していき、研究、科学的根拠、事例などを積み重ねて専門性を深化させたものと考えています。

(4)利用者と言うのは、老人のことですか?
→介護保険制度は社会保険ですので、保険事故にあたる要介護状態になった人全てが対象になります。介護保険制度の“利用者”という意味で業界では使われています。医療で言う“患者”ですね。利用者の枠に入る方は65歳以上の第一号被保険者と40歳以上64歳未満の第2号被保険者(特定疾患と診断された人)になります。ですから、一概に老人とは限りません。障害者で若い方も含まれます。
また、介護保険制度意外にも介護の仕事はあります。例えば障害児等です。ですから、介護の対象は『日常生活に支障のある方』であれば全てが対象です。利用者という言葉はあくまでも介護保険を使っている方に限定した狭義の言葉です。またこの言葉の使用に関しても議論が必要と思われます。
私は以前の会社では“お客様”今は“利用者さん”と呼んでいます。

(5)研究者が、外国の方でも、今の日本の年寄りの参考に成るのですか?
→そうなる点と、そうでない点があると思います。
例えば、日本の介護保険制度はドイツを参考にしているといわれます。また、福祉先進国の北欧から学ぶこともたくさんあります。
ただ、介護は国民性だけでなく、地域性、そして生きた時代、性別など個人差が如実に表れるものですので、世界の研究も日本の研究も相互に参考になる点とならない点があると考えています。

(6)一般人には出来ない事とは何ですか?
→厳密には、介護は業務独占ではないので、一般の人が“やってはいけないこと”はありません。つまり、してはいけないことが無いので、全部やってよいのです。ただ、それが上述の知識、技術を発揮しながら、理念に沿って、実践できるかどうかは別の話です。この辺りはまだ明確に提示できることは少ないのが介護の現状だと思いますし、課題だと思います。
時々、テレビなどで、介護の達人的な映像が出ます。特に激しい認知症状の方を落ち着かせるとか、笑顔にするといった類です。これは、達人技と称されていますが、これを解体して、何故これができるのかを体系化して身につけていくことで、一般の人とはできない介護の専門性が担保されていくと思います。
※ただ、認知症の方を落ち着かせたり、笑顔にすることが必ずしも良い介護であると断言はできないのですが。


2私の意見

(1)共に喜怒哀楽を分かち合い、生きようとするもの。。。『心』である。
>私は老人ホームに入って来た人と共に喜怒哀楽を分かち合い、生きようとする。など無理だと思います。
これをできるようになれば介護は一般の方にはできないことができるプロフェッショナルな仕事になりますね。

個人的には、このように他者と喜怒哀楽を分かち会おうと意識的にアプローチすることを通じて、他者の信頼を得たり、そのことによって、その人の人生の質を高めようとする働きかけを日々行っているつもりです。これを分析しながらお伝えしているのがこのブログのつもりです。まだデータ化や評価の可視化等に関しては課題が山積しておりますが。

また、家族だからこそ、親しい間柄であるからこそできないことがあります。他者であるからできること、できることがあります。普通に考えてそれは無理だろう〜、と思われることを理論化して、諦めずに実践し続けることが介護職の仕事だと私は考えています。


(2)介護職員が本来持っている心を目覚めさせるとありますが、理解できません。
→抽象的かつ曖昧な書き方をしてしまい申し訳ございません。

心を目覚めさせるというとおっしゃるように宗教や青春ムービーのようですが、決してそのような意味ではありません。

人間には記事中で述べたような心(他にも表現を変えて列挙しました)があることが様々な学問から明らかにされています。主にそれは心理学や脳科学の分野、他にも哲学や倫理学、民俗学等からも、その人に備わっている心的なものが言われています。

それらを解体して、メカニズムを知り、それを実際の現場で優しさなり気づき等で表現し、具体的介護として提供することを目指す!という意味です。

例えば、どうしても興味がわかない利用者がいたりします。その原因は?と深く考察していくと、その興味関心を持てないという介護職自身の成育歴なり現在の人生の課題等に当たることがあったりします。それを克服したり向き合うことで、その興味が沸かない利用者に対して興味、気づき、関心を持つことができたりします。これは『自己覚知』という技術と教育になります。


>最後にお金を儲ける事が悪いような雰囲気があるのであれば、私は間違えだと思います
私は強く賛成いたします。
ただ、介護業界に限らず、医療、教育などの聖職とかつて呼ばれたような分野では、これらの仕事と利益が反発する精神がありますね。これは日本人や東アジア諸国における民族性などからも見られる見解です。

例えば、今後医療の民活導入が進み、法の抜け穴や制度違反ギリギリの医療行為で経済的成功をおさめるような医療機関が現れたら一般人さんはどう感じるでしょうか?もし、一般人さんのお身内でそのような医療機関に酷い仕打ちを受けた方が出てきたらどう感じるでしょうか?

医療はやっぱり利益追求をしてはいけない!!という考えに少しはなるかもしれません。

介護業界は聖域と呼ばれるであろう分野に民活が導入された日本でも珍しく新しい業界です。

ですから、このような介護≠利益という風潮がまだまだ根強いということは認識していただいた方がよいと思います。大切なのは、その認識の先に介護=利益も必要だという考えに転換し、質の担保が業界全体でなされるようなことではないかと考えます。

以上になります。
繰り返しますが、貴重なご意見いただけたこと本当に感謝しております。このご返答に関してさらにご意見いただいたり、また今後の記事にも一般の方の業界外の視点を頂戴できればとても嬉しいです!今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
   
Posted by kinsan at 2010年11月14日 20:59
ご回答頂きましてありがとうございます。

私は老人ホームの仕事を知りません。そんな無知な私のとても失礼な質問にもかかわらず、丁寧なご

回答心より感謝致します。

回答文を、読ませていただき、また質問したい事が出てきました。

よろしければ、またご回答頂ければ幸いです。

 質問

 1.三大介護が食事、排泄、入浴=飯を食わせて、トイレに行かせて、風呂に入れる

   という事ですよね。

   私個人としての疑問ですが、上記の事が出来ない人ばかり、なのですか?

   普通に考えますと何かひとつが出来ないとか、一つは出来るけど後2つは出きない、あるいは

   全部出来ないに別れますよね?

   たとえば利用者全員が、全部出来なければ、大変だと思いますし、逆に一つが出来ない

   人が多ければ楽になると思うのですが、割合と言うのはどれ位なのですか?

 2.上記の三大介護の中で一番気を使うものはどれなのですか?

   私は個人的にトイレはサポートされたくないのです、特に大の時はです。

   なので利用者の方は、何が一番嫌がられるのですか?

 3.普通の会社では、トップに社長がいます、その下に取締役、中間管理職、平社員

   と言う様な形体です。

   そして多くの会社では、社長が支持を出し社員がそれに対して仕事をしますが、

   老人ホームの場合社長に当たる人は、誰に成るのですか?

ごめんなさい会社に行くので、質問のつづき、は又にします。

すみません御無礼お許しください。

Posted by 一般人 at 2010年11月15日 07:34
一般人さんご質問ありがとうございます。

1.三大介護についてです。
老人ホームにも種別がありますので一概に言えませんが、何もかもできない方もいますし、実はほとんど自立されている方もいらっしゃいます。どんな状態の方がどれくらいというのはハッキリ言えません。
同じ人でも、状態が一日のうちに変わることもあります。
また、全部自分でできる方でも、例えば家族が全然面会に来てくれなかったり、仲良しの入居者が亡くなったりという精神的ダメージで、食事がのどを通らなかったり、拒否するようになったり、消極的自殺を図る方もいらっしゃいます。

これって私たちと同じ人間だからです。

つまり、老人ホームで行われている介護というのは表面的には三大介護がメインです。介護というイメージもそれにあたります。しかし、実際に行われているのは、人が日々生活していくなかで起こりうるあらゆる事柄に関して配慮と見守りと支援が必要です。その方にどれだけ手を差し伸べる必要性があるのかも個々に違います。
手をかけすぎると、かえって自立心を失わせることにもつながります。

介護のイメージ、単なるお世話ではないということが少しでも伝わればと思います。


2.三大介護のうち気を使うもの。
どれとは言えません。全部だと思いますよ。とくに排泄に関しては強いと思いますが。

老人ホームでは人手不足などもあり、女性入居者を裸にして体を洗うのが男性介護職ということもまだまだあります。それだけでもその女性にとっては尊厳を失わせる行為ですよね。
食事だってそうです。

ようは、お世話されながら生きなければならないこと自体、人にとっては苦痛以外の何物でもないのだと私は考えています。


3.施設によって異なります。
代表的な法人では、おっしゃるように、ヒエラルキー型の職場社会が存在しています。ただ、ほかの業種と異なり、末端の介護職は専門職ですので、経営陣の上意下達でものごとが動くとは限りません。また、社会福祉法人という公益法人が主に特別養護老人ホームを運営していますが、この法人の歴史を紐解くと、拝金主義者の理事長などが存在しているというところも多いと聞きます。

ですので、福祉のマインドを立派に持っている社長(にあたる理事長なり施設長)ばかりではないというのが、介護業界のつらいところです。

Posted by kinsan at 2010年11月15日 08:02
御回答ありがとう御座います。

前回は中途半端な質問ですみませんでした。

私も最近疲れが溜まっていまして・・・・・

これからは、質問を一つにしたいと思います。

こちらの勝手を言いましてすみません。

今回の回答でたんなるお世話と書いてありますが、

単なるお世話でいいと言う人もいるでしょうし、心がこもっていないとダメだと言う人も居ると思いますが。

私が当人だとしたら、単なるお世話のほうが、絶対いいのです!

五体満足ではない自分に対して心を持ってなんて言って欲しくないと思うし。

その人はおそらく生きていた中でいままでは、人(他人)の世話になりながら生きてきた訳では

ないはずだと思うのです。

そう思っている人に、心をこめてお世話させて頂きますなんて言ったら

それは、余計なお世話になるんじゃないですか?

それなら、トイレ行くから出ても出なくても毎日この時間はトイレに入れといわれた方が

ぜんぜんましだと思うのですがどうでしょう?


Posted by 一般人 at 2010年11月16日 21:54
一般人さんご質問ありがとうございます。

ご質問に関して2点お話しさせてください。


1点は、単なるお世話のほうがよいというご意見について。

これはあくまでも一般人さんの主観によるご意見とお見受けします。そして現在働いて、一応身の回りのことはご自分でできる現在の一般人さんのご意見ということだと思います。

色々な方がいます。

健常者の方でも、心がこもったほうが良い人もいれば、一般人さんと同じ意見の人もいます。
一般人さんのお身内が仮に今後2か所の介護事業所を利用することになったとして、一方は心がこもっていて、もう一方は心がこもっていなかったら、比較をするでしょう。その時でも単なるお世話が良いと言えるかわかりません。

ようは、人はご自分の経験、体験、見聞きした情報などからご自分の意見が形成されていきますが、それは確固たる意見のように見えますが、実に流動的です。
それは、この仕事に就いてから、たくさんの利用者・家族が私に見せてくださった生々しい、人間の生きざまから言えることです。そしてもちろん、私のこの意見も絶対ではないのです。

ですから、私たちは、その流動的な意見、希望を適切に把握しながら、実際の介護を提供していくということが求められます。


2点目は、その「心をこめる」の“心”とは何か?ということです。
こちらは最新記事『介護の心を解体する』に書いておりますが、介護業界内ではこの心という概念が実に抽象的かつ逃避しやすい言葉として流通しています。

心をこめるとは実際にどのようなことなのか?それがわからない現段階では、結果として、心がこもったほうがよいのか、心がこもってなくてもよいのかがわからないという現状だと思います。


最後に、私たちの仕事はある意味ほとんどが『余計なお世話』かもしれません。いえ、全てかもしれません。

しかし、その余計なお世話を通じて、人は要介護状態になっても、なる以前も実はみんな『人(他人)の世話になり、世話をしながら生きている』ということに気づける機会を提供させていただいているのかもしれないと私は考えています。

一般人さんも、私も、現在過去未来、必ず誰かのお世話になって今を生きているはずですよ。ご両親であったり、ライフラインの仕事に従事する人だったり、隣近所だったり・・・

現代社会は経済的、情報的優位性によって、人は自分が独立自立している存在と盲信しやすいものです。しかし、私たちは必ず誰かのお世話になり、そして誰かをお世話する存在だと私は考えます。

やや概念的話になってしまい、ごめんなさい。
Posted by kinsan at 2010年11月17日 07:33
一般人様・kinsan様へ(コメント長くなってしまいます。ご容赦!!)
横から失礼します。サラリーマン経験者の介護士(特別養護老人ホーム勤務です)の意見です。
一般人様の疑問や関心とずれていたらご容赦ください。
まず、僭越ながら福祉サイトに興味をもたれ、貴サイトの記事に目を止められたことに感謝します。
(以後個人的意見になります。)
サラリーマンの存在意義は売上(利益)を上げることが至上命題です。開発・生産に関しても売れる商品開発とA品効率を上げること。まさに身を削る世界です。不合理と思える社内の生存競争もあります。正しいことが受け入れられない。結果的に企業生命を縮めると分かっていてもどうしようもないこともあります。死ぬ思いを味わう面もある世界です。(私も光と影の世界を味わいました。)その上で一般人様の目には、この福祉の世界は奇異に映ると思います。たしかに存在意義からして違いますから。まず利益をあげるシステムや視点が希薄です。救命医療であれば命を救うが命題ですが、老人介護は“死”までみとる、命を預かり生活を支えるサービス業だと思います(私の考えです)。年老いて病み、自分の意思で自分の生活の主導権を自由にできる当たり前の生活が行える世界ではありにくいのが実情です。そのなかで現場の職員の試行錯誤があります。≪出来ましたら紹介されている“お気に入りサイト”のぞいてください。≫今の介護福祉制度上で矛盾やはがゆさ、弱い立場の人々へのしわ寄せが感じられると思います。(セーフティネットが安心できる状態であればこそ力強い社会が形成されると思うのですが)すみません脱線していました。もどります。いわゆる自活が世間に迷惑をかけずにできない心身状態まで病み衰えても、安心して生きていけるようにするのが私たちの職務です。死ぬまで自活出来れば言うことありません。でも出来ない人が大勢おられる現実を知って欲しいです(もしかしたら十分ご存知かもしれませんが)。さて、福祉業界の施設の組織はまだ確立していない面があります。それで運営出来ていた、ある意味ゆるい世界でもあります。しかしその分社会的評価がインフォメーションできていない面も強いと思います。誰もが出来ることかもしれませんが、プロの仕事は誰でもできるものではありません。教育・訓練が必要です。また、どの仕事でも共通しますが一般的なコミュニケーション力は必須です。というより対人サービスですから大いに必要と思われます。ただ、効率性が第一でなく、お客様の気持ちやゆっくりとした動きに対応する感性が大切です。そして介助技術で安心安全なケアを行う。チームで365日24時間切れ目ないサービスを行う。そういう仕事です。まとまりのないコメントですみません。分からないところがあればお聞きください。
Posted by ウエッティ at 2010年11月18日 01:04
ウエッティさんの一般人さんへのコメント拝見しております。

>いわゆる自活が世間に迷惑をかけずにできない心身状態まで病み衰えても、安心して生きていけるようにするのが私たちの職務です。

シンプルでわかりやすい介護の表現だと感じました。とてもわかりやすいですね。

一般人さん。

ウエッティさんは他業界を経験された後、介護業界に入られた方ですので、私よりも両方の観点からのお話をしていただけていると思います。私も参考にさせていただきます。


ちなみに、当ブログでも時々申し上げているのですが、私が介護というものを深く追求したいと行動する原動力は、外資系の企業に勤める級友の言葉なのです。

『介護・福祉はしょせん経済繁栄の余剰を享受しているにすぎない。貧困にあえぐ国や世界に目を向けてみよ。日本は、経済的発展があったからこそ、今介護だの福祉だのが話し合えるレベルにまで達したのだ』
『必要なことは理解できるけど、納得はできない!』

この言葉を私にくれた級友にいかにしたら『介護・福祉』の存在意義が伝えられるか。彼が「そうか!介護・福祉は我々にとって必要なものなんだ!」と納得してもらえるか。それが私の探求の原動力です。

もう一つは当然ですが、目の前の利用者さんに自分ができる最大限のケアをしたい!という重いです。

脈絡がありませんが、お伝えしたいと思いました。

Posted by kinsan at 2010年11月18日 12:55
はじめまして。
とても興味深いお話ありがとうございます。
私は訪問看護師として働いてる傍ら、
北海道で宿を経営しているものです。

kinsan様のご意見を見ていますと、
非常に看護と通じるものを感じました。
特に昔見られた「看護師の社会的地位を高める」といった取り組みと似た感じがします。
(「心」の部分も含めてです。)
看護師は「医者のお手伝い」としての地位を脱するために、
理論、学問で武装しました。
おかげで地位も高くなり、社会的にも認められる様になりましたが、
「心」という部分が置いてけぼりになっている感じも否めません。
kinsan様の様に志を高く、
内部からのスキルアップを目指してく方が増えれば増える程、
質が高まっていくと思います。
具体的には、級ごとの知識、技術の差を明確にする事でしょうか。

さて、一番お話ししておきたかったのはこちら、
>『介護・福祉』の存在意義が伝えられるか
の部分です。
一番これを感じてもらえるのは自分の親に介護が必要になったときだと思います。
逆に言えば、必要にならない限り納得はしてもらいにくいのではないかと。
目の前で多くの人がなくなっていった昔とは違い、
「老いや死の体験」が乏しい現代人にとって、
理解できたとは言え納得する事は難しいと思います。
ですから、そういった「老いや死の体験」をする機会がとても重要なのだと思いますよ。
kinsan様もそういった体験を積んだからこそ、
今があるのではないでしょうか。

とりとめのない文章失礼しました。
熱い思いについ書き込みをしたくなってしまいました。
Posted by 和みの風 at 2010年11月18日 20:52
和みの風さん、コメントありがとうございます。北の大自然での宿、とっても素敵ですね。ロバが可愛いです。

>特に昔見られた「看護師の社会的地位を高める」といった取り組み
介護を深く考えていくと看護に行き着きます。その中で、白い巨塔の時代から看護師の皆さんが積み上げてきた歴史を拝見しました。
ケアとは?看護とは?ということを深いレベルで議論されてきた歩み、理論、学問の研鑽によって確立した専門性の歴史に介護は大いに学ぶべきだと思います。

看護は「心」を忘れてきたということですが、忘れたものでしたら思い出せばよいと思います。現に、看護はそれを取り戻す動きがここ数年起きているのではないでしょうか?

対して介護は、忘れるどころか、まず心が何か?というところから始めなければならない段階です。介護はもしかしたら、数十年前の白い巨塔の時代どころか、1600年代頃の段階、つまり漢語に比べて400年も遅れているかもしれません・・・焦ります。

ですから、400年を埋めるためにも他業種から真摯に学ぶ姿勢を大切にしたいです。
>級ごとの知識、技術の差を明確にする
一つの貴重なご意見ですね。参考にさせていただきます。


後半部分について、私も『体験』が何よりも重要であり、百聞は“一体験”に如かず!だと思います。ですから、業務独占がなかったり、専門性が低い分、介護ではご家族の体験に基づくご意見が介護職よりもメッセージ性が強いのだと思います。

介護職を育てるにもこの“体験”が何より大切だと考えております。現に私がここまでこられたのは公私ともに体験を積み重ね、それに対してスーパービジョンしていただいたり、書籍や先人の教えに学んでいるところが大きいです。

看護師の方の貴重なご意見、とてもうれしく思います。どうぞ今後もご意見頂戴できたらうれしいです。

寒い大地の冬。どうぞお体ご自愛ください。
Posted by kinsan at 2010年11月19日 08:37
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