介護の心を解体する!

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介護の心を解体する!

2010年11月14日


介護業界に流通している言葉・概念がある。

それは『気づき、優しさ、想いやり、尊厳、自立、人間性、感受性、相手の立場に立つこと、ホスピタリティ、もてなし、笑顔、ふれあい、助け合い、寄り添いetc』等という言葉に代表されるものである。

これらを総称して『介護の心』と本記事では表す。

今日はこの『介護の心』がいかに介護業界をダメにしているかを考えてみたい。



介護現場で一番に求められることはこの介護の心である。いかに、知識・技術・理論を持っていたとしても、この介護の心を持ち合わせていないと現場では良い介護職とは呼ばれない。

現場で、一人の介護職のちょっとした言動の中に、他のスタッフが介護の心を感じられないとそれはすぐに批判の対象となる。

例をあげてみよう。

・「Aさんが夜勤の時って、早番が来る時間になっても、まだパジャマのままだし、パットも濡れてる人が多いのよね」
 ⇒「Aさんって本当に“気づけない”よね。本当チョー役立たず」

・「Bさんて、今日お客様の前でしかめっ面だったよね。お客様の前で“笑顔”もできないなんてありえないよね。介護辞めろってカンジ」

・「うちの管理者っていっつも書類とか記録とかにうるさいよね。現場の苦労を全然知らないくせに。そのくせ介護は“想いやり”とか言って、自分が無いくせにエラソーなんだよね」

・「看護師のCさんて、本当に冷たいよね。ちょっと血圧が高いからって、安静ばっかり優先して利用者さんが外に行きたいとか“想い”を無視するよね。看護師は病気ばかり見て“人を見ない”よね」


などである。



現場だけではなく、こんな言葉もよくみられることである。

・「最近のビジネス志向の介護事業所って店舗数増やしているけど、質は最悪だよ。“介護は人”だよね。“一番大切な心の部分”が無いよねあの人たち」

・「介護は心!気付き!相手の想いに共感できる感受性!もっと、旅行に行ったり、芸術に触れたり、色々な経験をして人間性を磨かなくては!」



私は介護職が目の前の利用者さんに介護を提供するために、介護の心はとても大切な資質だと考えている『介護の“専門性を新提案”する』

しかし、その介護の心とは一体何なのか?その介護の心とはどのように身につけられるものなのか?そのことが問われず、深められずにいるように感じている。

介護の心が大事なことは十分にわかる。しかし、その介護の心という抽象的、かつ曖昧な概念を伝家の宝刀として振りかざし、それが無いものは介護を語るな、介護を担うな!と言わんばかりに切り捨て、介護職が専門職として深化していくことを妨害する、思考停止システムとして働いていることに大きな危機感を覚えている。



介護の心を語る人は、そもそも介護の心を持っているのか?それはどう評価するのか?それをその人はどのように身につけてきたのか?



断言しよう。介護の心とはそれを語る人の「主観的介護観」に他ならない!



つまり、介護には気付き、優しさ、想いやり〜その他の介護の心が絶対に必要で、それが無いと介護をする資格がなく、それが無い者は酷い介護職で、その人たちに比べると自分は少なくとも介護の心を持っている!と“思い込んでいる”に過ぎないのである。

しかも、それではその介護の心を持たない者がどうすれば介護の心を身につけられるか?すなわち良い介護ができるようになる資質を身につけられるか?に関しては考えないのである。

介護の心は「天性の才能」「生まれ持ったもの」「その人に備わっている人間性」等といって片付けられることもある。
どうやって身につけられるかと問われたら、上述のように、芸術や人生経験で磨いていく等という抽象的な先送り論になることもしばしば見受けられる。



介護に関する一般的なイメージとして介護の心のようなものはすぐに思い浮かぶだろう。

私はこのブログを書き始めた頃から『介護の専門性』にこの『介護の心』は必ず含まれると考えていた。しかし、介護の心=介護の専門性では無い。介護の心は介護の専門性を構成する一つの柱にすぎない。

介護の心は介護職が、介護という仕事を通じて、現場体験を通じて、また知識・技術・理論を交えながら、深めていくものである。

それを天性の才能として片付けてしまい、どうすればそれが身につけられるかまで深めることをせず、思考停止状態に陥り、介護の心が無いと自分が見えるものを単に批判するだけの堂々巡りに介護業界は陥っていないだろうか。



そろそろ止めないか。



介護の心とは一体何であるか、それを介護を志す誰もが身につけられるにはどうしたらよいか、を考え、介護職が介護職全体で、研究者や識者、他業種から学びながら、深化させていかないか?

介護の専門性は、介護職全員で積み上げていくものなのである。





何故介護の心がこれほどまでに業界に浸透し、思考停止システムとして介護業界を蝕んでいるかを考えてみよう。


一言でいえば『楽だから』である。


つまり、介護の専門性とは何か?目の前の利用者、家族に真に良いケアを実践するにはどうしたらよいか?という絶え間ない探求をしなくて済むからだ。
しかも、自他共に、その聖職ぶりをアピールすることで、待遇向上を求める。もちろん、私たちにそんな気持ちは全くない。しかし、介護の心はそこまで介護業界の深化を止めていると私は考えるのだ。


介護の心は介護職だけでなく、世間一般に広がる先入観の総称だろう。

私たち介護職は、その世間一般にあるイメージを率先して担うことに自らのアイデンティティを求めていないだろうか?
3Kな仕事を介護の心を持って担う自分たちを尊い聖職者としていないだろうか?
世間がそう見てくれることに自己満足を感じていないだろうか?
そして、そんな尊い仕事をしている自分たちを評価して待遇をあげて欲しいと懇願していないだろうか?


専門職である介護は、介護の心と3Kを笠蓑に、社会から待遇向上を助けてもらう仕事ではないはずだ。

自らの専門性を自らの研鑽によって深化し、待遇なり社会的承認を勝ち取っていくものであるはずだ。


利用者に役割や自立支援を求めるのであれば、介護職自身も自立し、専門職としての自己実現を図る必要がある。
そのとき、介護職は専門職として認められ、自らの仕事にやり甲斐と自信を持ち、外から憧れられる、魅力的な職になるのではないだろうか。


介護の仕事の魅力を伝える、ということをよく聞くが、魅力の大部分をまた介護の心にしていないだろうか?
また、魅力の部分を経済的成功に求めて、かっこよさを魅力にしていないだろうか?


私がもし介護を知らない他業界の人間だったら、介護の聖職者的イメージを覆し、表面的には介護の心溢れる仕事の中に洗練された専門的なプロの仕事を見たときにこそ、介護の魅力を感じると思う。すごい!かっこいい!と思う。



何をすればよいか?



私は介護の心を解体していくことに介護の専門性の確立があると考えている。

『気づき、優しさ、想いやり、尊厳、自立、人間性、感受性、相手の立場に立つこと、ホスピタリティ、もてなし、笑顔、ふれあい、助け合い、寄り添いetc』とは一体何で、それをすることが対人援助にどのような効果が表れ、評価できるのか。それはどうやったら身につけられるのか?

それらを一つずつ解体して、考えていく、研究していく、積み上げていく、共有していく、そしてそれをまた実践していく。



私たちの拠り所であった、介護の心を解体して介護職一人ひとりが真剣に深化に携わることが今、求められているのではないだろうか。
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この記事へのコメント
初コメさせていただきます。twitterでこのブログを知りました。

いや、この記事。スゴイ。

>>断言しよう。介護の心とはそれを語る人の「主観的介護観」に他ならない!

この言葉に撃ちぬかれた気がしました。

この業界のテーゼとなっていた「介護の心」によっかかり、それを疑問に思う事が許されない状況。
「それが介護の心でしょ」といわれれば、反論もできない。

オカシイよ。

専門性とは他人や世間から与えられるモノではなく、我々が築いていくのだ。
だから誇りをもてるのだ、介護職に。

とりとめのないコメントで失礼します。




Posted by sandanshikomi at 2010年11月14日 21:44
はじめまして、では無いのですが…。笑福会では「たーくん」とか「たすく」で通ってる者です。
「介護の心」なるものは、サービス業では「当たり前」ですよね…。(「自立」は例外)介護でも「当たり前」で、付加価値を主張する気も無さそうなのが主流なのが不思議。(岡山でちらっと出た話題です)
竹内孝仁氏は
「家族では介護をやっていけないのでヘルパーを頼む」「人手がないから病人を医師や看護師に任せることはなく、彼ら(彼女ら)は病気についての専門職だから委ねる」と厳しい指摘をしてます。
私は施設勤務なのですが、家族等からの評価も「介護の心」が基準になりがちなのですが、自分を含めて、付加価値をまだ提供できてない・伝えきれないのも一因だろうと思ってます。自分のユニットの方は拘縮0でも、全然評価されないので(*_*) まぁ、拘縮や身体拘束0は当たり前で、なおかつ、刑務所みたいじゃない施設を目指してます。岡山みたいなo(^-^)o      長文、失礼しました。
Posted by くたくた at 2010年11月14日 22:05
sandanshikomiさんコメントありがとうございます。

はじめまして。拠り所となる介護の心を解体していくこと、そしてその中から積み重ねて築いていくこと。みんなでやっていかなければいけませんね。

ありがとうございます。
Posted by kinsan at 2010年11月15日 07:29
くたくたさんコメントありがとうございます!

岡山というのは?勉強不足でごめんなさい。

竹内先生のご指摘は的を得ていますね。同じような業種としては保育士が思い浮かびます。

ちなみに、介護におけるサービス業的アプローチと福祉的アプローチの間ではまだまだ隔たりがあるように感じます。今後、介護の品質管理、専門性の深化が進めば、両者の垣根は低くなってくるでしょう。このように、異なるアプローチから深化を目指せる介護は、ある意味、専門性を進化させるうえでは恵まれた環境ということができるかもしれませんね。

適切なアプローチを行っていて、意図的に拘縮が0であるならば、それは評価されてしかるべきです。しかし、そのプロセスをアウトプットできなければ、評価されないのは当然かもしれません。
医療のように、病が治った治らないの判断基準がある程度明確であればよいのですが、介護は“維持”のプロセスが見えにくいですね。また、たとえ状態が低下しても「年のせい」ということで、不適切なアプローチがあったことも見えにくいことがあり、介護の深化にとって課題ですね。
Posted by kinsan at 2010年11月15日 07:38
今まで何回かお会いして話し合ったことが、こんなに分かりやすく、パワーアップしてまとまっていることに驚きです。

やはり介護の心は必要なんだけど、抽象的なままで、介護現場の思考を止めている現状は多くの場合間違いないと思いますよ。

この前のフォーラムの前座で話したのですが、多くの介護現場の人は議論が苦手ですよね。議論できないと深化はありません。疑って論証するのと極論を提示するのはまったく違いますし。
やはりプロならば結果とその思考過程の提示で、世間に示して行きたいですね。
Posted by 裸王田中 at 2010年11月15日 07:42
裸王田中さんコメントありがとうございます。

なぜ介護職は議論が苦手なのでしょう?なぜになぜを重ね続ける日々です。

「どうしてなんだろう?」と。

やっぱり、楽だからではないかと思います。

介護は過程「プロセス」であると私も考えます。ですから、評価できるし、振り返ることができるし、改めて考えて実行していけるのですね。その繰り返しなのでしょう。

個人的に、自分の事業所で自分ができているかと問われたらまだまだですが・・・
Posted by kinsan at 2010年11月15日 08:09
再度、失礼します。
結果をデータとして示せないから、「専門性がない」といわれる事へのオカシサを感じています。

だから
>>介護は過程「プロセス」であると私も考えます。ですから、評価できるし、振り返ることができるし、改めて考えて実行していけるのですね。
という思いは私も常に持っています。

『専門的であればイイという訳ではない、どんな専門性が求められているかという事が大事である』
この某氏の言葉を、もう一度考える時期なのかもしれません。
Posted by sandanshikomi at 2010年11月15日 08:49
今回の記事は特に好きです。
また、同時に多くの介護職を敵にまわしたことでしょう(笑)。

私の意見は、やはり「介護の目的」ということになります。
目的がはっきりしないから、
「心」だの「思い」だのという曖昧な部分に逃げるのだと思います。

これは極論ですが、
目的さえはっきりしており、それに対して効果的なアプローチさえ出来ていれば、
そこに「心」めいたものがあろうがなかろうが関係ないと考えます。

また、しいて言えば、
「介護の心」というのは、介護の仕事を選択し、少々給与が安くても、少々仕事がきつくても、
それらをポジティブに乗り越えていく上での支えたるもの、
と考えるくらいでいいのかなと思います。
そういう意味では「介護の心」の重要性を認めます。
Posted by 元気の子 at 2010年11月15日 14:24
sandanshikomiさんコメントありがとうございます。

おそらく世間一般に示す『データ』≒「客観性、エビデンス(科学的根拠)、数値化、可視化」そういったものが一体何であるかをまず考えるべきだと思います。

こうしたものが一体何であるかを知らずに、単にデータで介護を表すことに食わず嫌いしているようにこの業界は見受けられれます。

例えば、ある利用者の排尿パターンを調べて、リズムを把握し、定時誘導する。これは立派に科学的だと思います。このような排尿パターンを調べることが有用な利用者はどんな条件を持っている方か?排尿パターンを調べることが必ずしも有用でない利用者はどのような条件の方か?

こうしたことを積み重ねて、介護業界で共有する智とすることだけでも専門性深化の第一歩だと思います。

すると、この科学的根拠が各地で検証され、この根拠が磨かれて信頼性が増してくるのです。

その時に、Aさんはこのような条件を持つ方だから、排尿パターンを調べることが有用です。と専門的アプローチに展開されていくわけです。

これは何も利用者を人としてみないとか、分析しているようで冷たいとかではないと私は考えます。

人を見るからこそ、その人により迅速により適切な支援が展開できるための基盤なのです。

医療・看護だってそのように科学的根拠を重ねています。司法だって、判例というものに倣うことが多いのです。

このような取り組み自体にブレーキをかけているのが『介護の心』だとこの記事ではお伝えしたいです。
Posted by kinsan at 2010年11月16日 08:14
元気の子さんコメントありがとうございます。お久しぶりです♪

人である限り、コンフォートゾーン(安心・安全・安楽な居場所)に留まろうとすることは必然だと思います。スコトーマと同意でしょうか。

ですから、目的やゴール、理想ではなく、そこに行くためのツールがいつの間にか目的とすり替わってしまう。そのツールを学んだり、実践していること自体に悦や楽を見出してしまう。私自身の私生活を振り返っても当てはまります。

極論はおっしゃる通りかと思います。

また、元気の子さん視点の介護の心に関する重要性も同意です。

多くの業界人を敵に回している(笑)元気の子さんも是非ご一緒に介護の心を解体していきましょう。そして、単なる持論に留まらず、そこに論証を重ねていきましょう!

私はまずその論証の手法自体から学ぶところから始めたいと思います。


自事業所において少数スタッフ論の意味深さをかみしめている今日この頃です。
Posted by kinsan at 2010年11月16日 08:20
うん。とってもよく分かります。
排泄アセスメントにしても、「長時間尿動態データレコーダ」も開発され、これまでの我々のケアに化学的な根拠を与える要素になってます。
もっと、データを蓄積し、検証し、我々の日ごろの介護のエビデンスとするところには激しく同意します。。
また、そういう取り組みにブレーキを掛けていたのが「介護の心」だという事にも。

ただ、加齢によりADLは低下していくし、行動・心理症状が穏やかになったとしてもHDS-Rの点数が良くなるわけではない。そういう意味での「データ」の考え方も必要なのかもと。
食わずキライと言う意味ではなく。

だからこそ、kinsanが言われる様にプロセスのがアウトプットが必要だと強く感じます。
このプロセスを共有し検討し「公表」する事が大切なのではないかと。

 
何回もスイマセン。
本当にありがとうございました。
Posted by sandanshikomi at 2010年11月16日 22:32
sandanshikomiさんコメントありがとうございます。

「長時間尿動態データレコーダ」なるものがあるのですか?未知なるものがたくさんあるのですね。勉強不足でした。

「データ」の考えについて、大切なご意見ですね。

特に近い将来、低下が前提の高齢者にとっては、結果は多くが低下になることを十分に考慮したものになる必要がありますね。

また「公表」についても考えなければいけませんね。
「学術大会」や「研究会」などで公表されないと認められないとか。
公表して他者に伝えられるレベルにしなければいけないとか。

課題は山積ですが、歩みを止めてはならないのでしょう。逃げてしまったらそこでゲームセットですね。

ありがとうございます。またご意見よろしくお願いいたします。
Posted by kinsan at 2010年11月17日 07:19
最初に、裸王田中さんの「介護職は議論が苦手」に思うところ:
モノ言うお客様の洗礼に慣れていないので、自分の行っている
サービスを客観的に説明できないのでは?議論の元は問題意識。
最適解を求める論理的思考の訓練が業界全体で必要だと思います。
しかし、すみません。勤務先の議論もバージョンアップが必要です。
そのはたらきかけが出来ていません。私自身、問いかけが足りません。
その場の具体的な解決などの問いかけをしていきたい(その為には
私自身の勤務態度が重要でしょう。聞く耳持ってくれるかどうか?)
本題の、「介護の心」それぞれみんな何らかの形で持っているとして、
(前提の心がどうかが問題。ご利用者の心・気持ちを第一に考え行動
しているか?を持っているか?)それを裏付ける介護技術や対応が
出来ているか。チームとしてケアが機能しているか?この3つを柱として
≪心・技・集≫が介護職の合言葉になるのではないでしょうか?
時代が進むにつれ
心の進化
技術の進化
チーム力の進化
があるのだと思います。
(お歴々ノアトデ、コンナコメント、ヨカッタカナ?)
Posted by ウエッティ at 2010年11月17日 23:50
ウエッティさんコメントありがとうございます。

お客様の洗礼について
>おっしゃること、一理あると考えます。
ただ、介護業界において洗礼、クレームと言えば、人為的うっかりミスや、請求関係の行き違い、事故対応等しか思い浮かびません。

介護の質そのものに関してのクレームなり洗礼は、受ける側の利用者や家族もしっかりと介護職が輪に伝えれていないのが実情ではないかと考えます。もちろん、介護職の側がその伝えきれない質に対するクレームサインを受け取れていない、受け取る気が無いことも課題ですが。自分も含め。

また、本来であれば、介護職が提供した介護自体に対するクレームだったり洗礼のサインであるかもしれないのに、それを利用者個人の問題として私たちが見ている(そのような思考パターン)を身につけていることも落とし穴です。

例えば、利用者が障害や病気の受容ができなかったり、経済的不安があったり、痛みの訴えがあったとします。介護職はそれらの原因を利用者個人の置かれた状況や状態、人間としての心理等から読み取ろうとしますね。実は環境因子である私たち介護職がそのような不安や痛みを助長している(=つまり、介護の質が低いことで引き起こしている)という可能性に気付かないことが多いと思うのです。

介護職の質が悪いのか、本人の環境条件がそのようなサインを発進させているのかの見極めが難しいことに、洗礼を受ける機会が少ないということが言えるかもしれません。


後半の『心・技・集』ですが、これはマネジメントの基本とも合致しますね。

つまり心=『(個人や組織の)理念・理想・信念』
技=『高い質を担保し続けるためのイノベーション』
集=『チーム力、組織力』

介護であろうとなかろうと、この原則は当てはまるのだなぁと、ウエッティさんのコメントを読んでいて感じました。

介護は、しっかりしていると思っていた心に依存し過ぎているために、技と集がさらに疎かになっているということが本記事では言えると思います。
Posted by kinsan at 2010年11月18日 12:46
kinsanへ

私が言いたい事や、忘れていたことまで述べてくださっているようで
恐縮です。
やっぱり「議論」は日本人一般で苦手かも知れません。議論にならない場合が
あります。答えをはっきりださない、自分の意見をださない文化
(いつからだ?江戸中期以降かしらん)が影響しているのではないかと思います。

また、お客様の洗礼を感じるトレーニングは、自分の生活から振り返るのがひとつの
方法かもしれません。店での買い物とかヘアーカットでのこととか。
コーチングの手法が生かせるのではないかと思います。

また、マネジメントの基本・どこでもあてはまる原則、は言われて気付きました。
そうだ、過去より実践していたことだと。平職員の立場でも出来ることは
ありますが、ほんらいトップが旗を振るべきことですね。
この視点によって、事業所ごとに職場文化といえるようなものが
見えてくるのではないでしょうか。
その上で自己分析が個人レベルでなく組織単位、事業所単位で
検証できるかもと思います。いかがでしょう。
Posted by ウエッティ at 2010年11月18日 13:40
ウエッティさんコメントありがとうございます。

先日韓国料理を食べに行ったときに、お皿に盛りつけてくれた肉を目の前でハサミでジョキジョキ切られました。そういう料理なのだろうけど、やっぱりあんまり気持ちがよいものではないのだなぁと感じました。そして、普段それを現場でやっていることに気づいたり・・・自身の生活から振り返ること大事ですね。

マネジメントは確かにトップ自ら率先垂範すべきですね。その姿勢を見ていると、自然に個人レベルでのマネジメントをするようになります。おっしゃる通りだと思います。

私たちは専門職なのですから、知的労働者としてより一層の自己マネジメントが必要になりますね。
Posted by kinsan at 2010年11月18日 16:17
拍手︎ 拍手︎
他業界から転職し、この業界で不思議に感じていた事!理不尽でならなかった事が、すべてこの記事に書いてあり、読んだ後は気持ちがスッキリしました︎
金山さん、ありがとう︎
Posted by aroma9533 at 2013年09月29日 09:52
aroma9533さん、コメントありがとうございます。
しかし、なぜ理不尽なのか。私はそこを考えてみたら、責められない歴史もあることを知りました。それを踏まえてどんな業界にしていくのか。それは今勤めている我々の使命ですね。
Posted by kinsan at 2013年10月15日 18:33
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