介護はサービス業ではない???

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介護はサービス業ではない???

2011年3月19日


『介護はサービス業ではない!』

このように考えられている方は多いでしょう。
特に利用者さんやご家族との間で交わされる人としてのぬくもりや、心の通い合いを大事にして、日々現場で奮闘されている方はこのことを強く思っているでしょう。

私もどちらか問われたら、介護はサービス業ではないと考えています。
むしろ私は『介護は専門職による福祉支援』だと考えています。

その立場を明確にしたうえで、あえて今日は『介護はサービス業ではない』と思う方に警鐘を鳴らしたいと思います。



私は区の通所連絡会の代表をしております。

そこで感じることは「ここ1、2年で多様な形態のデイが出てきた」ということです。


少し前まではデイの形態なんて介護保険制度内での違いくらいしか見られませんでした。

小規模、通常規模、大規模
認知症対応型、早朝・延長預かりなど。


しかし、ここ最近は本当に多様なデイが出てきています。


例えば半日のリハビリデイ。
お風呂も昼食もなしで、午前午後デイに通って主にパワリハやリハ職による施術を受けるというデイです。
若者がジムに通って、淡々とメニューをこなして帰るようなものです。
主に男性の方や、脳血管障害の方、予防の方に好評だと聞きます。


同じく、半日で入浴専門のデイ。
素敵な室内インテリアで利用者数名を迎え入れ、簡単な体操や雑談を楽しみつつ、お風呂に気持ち良く入って帰宅するというデイです。
若者がスーパー銭湯に通って、普段とは違うハイクオリティな入浴をして帰るようなものです。
既存のデイや集団入浴(イモ洗い式入浴)を嫌がる方に好評だと聞きます。


他にも新聞で拝見した食事専門のデイ。
管理栄養士と調理師が旬の食材を使って作った豪華なフルコースや懐石料理を、お仲間と一緒に談笑しながら2時間ほどかけて食べて過ごすというデイです。
主に生活レベルが高かった女性利用者に人気だそうです。
平日の昼間に、亭主はせっせと働いていて、そのお給料で美味しいホテルビュッフェを食べながら痩せる話をしている、二子玉川の奥様みたいな感じです。


後は噂で聞いた学習デイ。
大手学習塾を経営する企業が、独自のノウハウで、高齢者に学習療法やシニアカレッジのような内容で認知症予防などをうたって展開するデイだそうです。


これらのようなデイは、わりと人気があるようです。
中には勢いよく利益をあげているところもあると聞きます。

介護保険制度の中で特にデイサービス(通所介護)はオリジナリティあふれる企業努力が発揮できる事業といえるでしょう。



さて、このようなデイは介護福祉専門職としての自覚がある現場職員からすると「あれはサービス業で、介護ではない!!」といわれます。
そのような声を多方面で聞きます。

彼らのやっていることは私も介護というよりはサービス業という領域に入るのではないかとみています。


しかし、だからといってこのようなオリジナリティある事業は非難されるべきものではないと思います。



私は介護福祉専門職としての立場からあえて問いたいと思います。



仮に上記のような事業は介護ではなくてサービス業というのであれば

『介護とは何なのか?』
『サービス業として展開されている事業所とどういった違う質のものを提供できるのか?』

ということを明確にしなければいけません。

相手方をあれは伝統的な自分たちや世間が考える介護ではなく、サービス業でありけしからん!というのであれば、批難に対するそれ相応の説明が必要です。
しかし、私含め、現場介護職からすると、上記のような一風変わった企業努力の成果である事業はけしからん産物に映るのです。


その瞬間に私たちは、サービス業である事業から学ぶべきことを見ずに、目をつぶるのです。思考停止。。。

しかし、思考停止状態になってはいけないと思います。


確かに介護“らしくない”かもしれませんが、それだけで、批難されるべきものではありませんし、ましてや介護“らしい”事業所より質が低いということは決して言えないと思います。

むしろ、『あいつらは介護じゃない!おれらのは介護だ!』というような根拠無き拠り所に甘んじ思考停止状態になった途端に、サービス業的介護の方が質を高める可能性を残すことになります。



相手は今まで見たことがないような突拍子もない事業形態かもしれません。
しかし、そこから私たち自身が何を学ぶか?そして彼らに自分たちを通じて何を学んでいただけるか?

そのことを真剣に考え続けなければならないと思うのです。



全く家から出ずにひきこもり、清潔保持ができない方が、2番目のような入浴だけのデイを利用するようになったとしたらどうでしょうか?
人と会い、会うために身だしなみを整え、身体を動かし、清潔保持をする。。。

専門的介護としてもやらなければならないことの一部をしっかりと網羅していることになります。


言い方を変えれば『サービス業でも専門的介護が提供すべきことを提供できる』といえるのです。
『ホスピタリティや企業努力が専門性を凌駕することができる』のです。


ホスピタリティや企業努力の産物であるサービス業と介護を区別するのであれば、このようなことを考えなくてはならないのではないでしょうか?


サービス業でもできることがあるならば、専門的介護を自負する我々は彼ら以上に質の高い“介護”を提供すべきなのではないでしょうか?



そんなことを考えます。



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この記事へのコメント
自分たちは利用者を選びません。

利用者が生き抜くための支援、それに寄り添う支援をします(支援というのはおこがましいですが)。それは、「今が良ければいい」ではなく、いい時もそうでない時も、どんな時でもの継続的支援です。

多種多様な形があっていいと思いますよ。選ぶのは利用者さんです。

しかし、ある部分に特化した「サービス形態」では、継続的な支援が難しい場合もあるのではないかと思います。それはある意味、利用者側の選択というだけでなく、こちら側も選択してしまっているのかもしれません。ですから、自分の個人的な考えでは、この「一部を切り取った」ようなものは、そうでないものと分けて考えた方がスッキリします。

それでも、利用者さんがそれでいいならいいでしょう。そして、零れ落ちた時に支えるのが自分たち、いうことでもいいでしょう。

>『ホスピタリティや企業努力が専門性を凌駕することができる』のです。

これは違うでしょう。そもそも、ホスピタリティや企業努力は必要なものです。それをやらずして専門性云々を語ることがおかしい。ただ、ある部分に特化しているところは、そうでないところと比較してその部分が優れているのは当たり前といえば当たり前。これを語る前提の「専門性」をどのように論じるのか?によって、話がかなり変わりますね。

それにしても、次から次へとよくもまあ、めんどくさいことを考えるもんだ。いや、褒めてるんだよ(笑)

Posted by gitanist at 2011年03月22日 02:36
gitanistさんコメントありがとうございます。

さて、われわれは利用者さんを選んでいます。
選んでいないとは言えません。

気持では選んでいないかもしれませんが、事実選別しています。
gitanistさんは認知症デイにお勤めとうかがいました。認知症以外の人は基本的に対象外ですね。
普通のデイでは若年性認知症加算がありますね。つまりそれも選別しています。加算があるからとるとかとらないとか。

介護保険制度自体がそもそも人を分けています。

もっと言うならば、制度や法律は分ける=区別することを前提とし、だからこそ、その範囲内に及ぶ効果や機能を生み出すものだと思います。

介護保険制度やgitanistさんに難癖をつけているのではありません。想いはどうであれ事実としてあるのではないかと考えます。

そうした場合、自らの特徴を打ち出したうえで、その事業者の強みが得意とする特定の利用者層を“切り出している”ことは私たちとどう違うのでしょうか?
制度で分けられているか、自らターゲットを絞っているかの違いではないでしょうか?

また、継続性を問うならば、私の勤めるデイも、gitanistさんのお勤めのデイも継続的な支援ではなく、生活の一部を切り取った支援ではないでしょうか?入所、入院されたら継続は途切れてしまいます。
ですから、さまざまな事業所での連携、チームケアが求められると思う。


この議論の奥には、上記の例のような特徴的な事業者さんが、私たちとは違う、何か上澄みの利用者さんだけを支援していると思い込んでいる偏見が隠れているのではないかと思います。
対照的に自分たちは上澄みではなく、もっと深い利用者も選ばずにみんな受け入れている、という暗黙のおごりはないでしょうか?

私はそのような気がするのです。

事実、上記のような方たちは、上澄みしか拾っていないのかもしれません。しかし、それは選別とも呼べますし、特徴を活かしているとも呼べます。
私たちも彼らの強みを生かして、連携し、利用者を中心にチームでアプローチすることが必要だと思います。自ら閉眼してはいけないということをお伝えしたいのです。


さて、>『ホスピタリティや企業努力が専門性を凌駕することができる』のです。

に関してですが、gitanistさんのおっしゃる通りです。ただ、ここでは、ホスピタリティや企業努力を一般的な意味ではなく、上記のような特徴的事業者を象徴する言葉として使ってみました。

これは特徴的な事業者さんに理解を示しつつ、実は、彼らには負けたくない介護の専門性を身に付けた私たちが存在したい!という矛盾した私のある種の願いです。

めんどくさい私にご意見をしっかりくださるgitanistさんも、めんどくさいことがお好きですね(笑)
Posted by kinsan at 2011年03月22日 08:03
kinsanへ
一言だけ
私も介護はサービス業だと思っています。
サービス業はまず顧客志向ですから。

そしてどのようなサービスかと言えば、
生活や命を守る専門的サービス業 だと思うのです。
だから、
お客様に対して言いなりでなく、介護従事者としての
プライドと見識が必要だと思います。
でなければ、
サービス業ですらありえない。
それ以下のモノになってしまうでしょう。

ながい一言になってしまった。
Posted by ウエッティ at 2011年03月22日 09:36
僕は介護は福祉と呼ばれようがサービス業と呼ばれようがどちらでも構わないですね。
薔薇はたとえ薔薇という名でなくてもその美しさは変わらないってヤツです。

そういう一部分に特化した事業所を「あんなの介護じゃねぇ!俺たちのそれこそが介護だ」というからといって思考停止するとも思わないです。逆にそうやって志気を高めて行くのもアリなんじゃないかなとも思います。
お互いが認め合うのが理想ですけど、対症療法を行いながら根本治療をしていく感じですかね。
ただ、排他的になるのではなく協力するときはするってスタンスは必要かと思います。

必要なことしか行わないのが介護というわけではないと思いますが、娯楽や贅沢の要素が強くなるとサービス業ってなっちゃうのかな〜。
指定を受けているからデイサービスと名乗っているだけで、別物という感じもしますね。

訳わかんなくてすみません。

Posted by ryyohr at 2011年03月22日 13:57
介護サービス提供の目的・根拠・結果が重要だと思います。

介護が「高齢者のQOLの向上」を目的として行われていて、
かつ、結果として高齢者のQOLが向上しているのなら、
それは利用者にとって必要なサービスといえます。

(利益を目的としているサービス、結果が出ていないサービスは論外です。)

そこで、いわゆる「介護福祉専門職」が勝負できるのは、
「サービス提供の根拠」の部分ではないかと思います。

利用者さんが楽しそうだから・・・
スタッフの負担が少なくなるから・・・
今このサービスが流行っているから・・・

等の理由で”根拠のないサービス”を提供するのは、
素人でもできます。

介護の専門家を名乗るのであれば、
一つ一つのサービスを明確な根拠に基づいて
提供していくことが大切だと思います。
Posted by ふくしいぬ at 2011年03月22日 16:34
 いつも拝見しております。
 介護の専門性はとても大事なことだと思います。いろいろお勉強をさせていただいています。
 
 話題がずれるかと思うのですが、今回のデイサービスのお話で、入浴にしても、豪勢な食事にしても介護保険でやる必要があるのかが???です。
 確かにお話にあるように『全く家から出ずにひきこもり、清潔保持ができない方が、2番目のような入浴だけのデイを利用するようになったとしたらどうでしょうか?
人と会い、会うために身だしなみを整え、身体を動かし、清潔保持をする。。。』は、大切なことだと思います。
 が、それを介護保険の給付でやる必要はあるのかな? 2〜3 なり 3〜4 なりの報酬をもらってやらなくても、ほかにやりようがあるのではと思ってしまう・・・。

Posted by ひとり at 2011年03月22日 17:59
極論。

高齢者専用賃貸住宅作って、
商店街作る。

牛丼家の閑散期にデイサービスやろう。ご飯に特化したやつ。
まあ、油少なめ、つゆダクならいいだろう?
商店街の中にある公衆便所で、デイサービスやろう。排泄に特化したやつ。
少し広めに作っておいて、人員配置しておけばいいだろう?
キレイなお風呂でデイサービスやろう。入浴に特化したやつ。
浴槽は段をつけておけばいいだろう?
フロ・メシ・クソは全部、特化してやればいい。
喫茶店も、居酒屋も、就労支援デイも、全部特化したらいい。
日常生活(のごく一部)支援だからな。

全部短時間で回せばいい。

あとは、全部、ケアマネジャーが責任持って、生活が継続するように組み合わせろよ。
なに、それぞれ定員10人のデイサービスでも、高齢者専用賃貸住宅には、
1000世帯ほどある。100店舗あっても大丈夫。巨大商店街だ。
普通の商店街よりも、一月で2億円ほど売上が出る商店街の出来上がり。
中学校区にそんな高齢者専門賃貸住宅+商店街が5つもあれば、
その地域の高齢者福祉は成り立つ。

いくらでも商店作れるよ。
普通の商店街と違うのは、そこに介護報酬がくっ付いてくるって事。
家の生活?実費でどうぞ。残りは誰かがやるでしょう?
まあ、みんな、体が動かなくなったら、面倒見ませんけど・・・。
・・・そんな未来が来るのでしょう。
黙っていて、普通に生活していても、介護報酬入ってくるしね〜。

アングラニッチの事業がメジャーになると、こりゃあいかんって、ぶったたかれるから、
こっそり、やるのがいいですよ。

金を拾いたかったら、いくらでもやるよ。そんな事。
でも、10年続く仕組みだとは、誰も思わないでしょ?
つまり、その答えは、不正解だって事だ。

と、僕は思います。
苦情は飯塚まで。
Posted by 飯塚裕久 at 2011年03月22日 18:42
ウエッティさんコメントありがとうございます。

いわゆる第一次産業(=農業、漁業等)第二次産業(=製造業等)以外の全ての職業は第三産業サービス業に当たります。(※現在では情報や知識生成をするものを第四次産業とも言うようですが)

介護はこの中では第三次産業に属しますね。しかし、どこに属していようが顧客志向であることに変わりはないはずです。全てのモノやサービスは末端消費者のためにあるわけです。

つまり、顧客志向であることは、介護だろうがなんだろうが当たり前のこと。社会的労働であれば対価を得るために価値や富を生みださなければいけないのです。

全産業が等しく目指す末端消費者に価値や富を提供することは、介護にとっても同じく最低限の義務です。


ですよね。

しかし、このような当たり前のことすら言葉にしなくてはならないのが介護なのでしょうか?残念に思いますよね。。。
Posted by kinsan at 2011年03月22日 23:53
ryyohrさん初コメントありがとうございます。

おっしゃるように、呼び方は何でもよいのかもしれませんね。

ただ、何故そこにこだわるか?

その言葉の区別が生まれた時点で、そこにはその言語に対する個人の主観が働き出すからです。

つまりryyohrさんも言及されていますが『サービス業』≒娯楽や贅沢の要素、というように、個人の思い込みや偏見、フィルターがかかるわけです。
別にサービス業=娯楽や贅沢ではないと思っている人もたくさんいます。

同じように介護や福祉にも個人の偏見が生まれます。

偏見の先に私たちは実際の行動が決まってくるのです。それが具体的に現場で展開される介護行為になってくるのです。
だからこそ、言葉を問うこと、その奥にある偏見に気付くことが大事だと思います。

そうしなければ思考停止も簡単に起きる。

言語にこだわる裏には個人が自分自身や社会、集団の中にある偏見に気付くこと、それが目的だと思います。

哲学に近い物かもしれませんね。

当たり前だと思い込んでいる物事の見方を変えるための思考がそうですからね。
Posted by kinsan at 2011年03月23日 00:02
ふくしいぬさんコメントありがとうございます。

ふくしいぬさんの考える専門職としての介護、介護福祉専門職、専門性等は私と近いですね。
私も同じように考えております。

サービス提供の根拠。

更に言うならば、この根拠を根拠たるものにするための、アセスメント能力やアセスメントを円滑にするためのコミュニケーション力、チーム協働力も大事です。
他には、その根拠をもとに具体的な展開を計画する力(これはプランニングだけに限りません)や計画したことを実際に介護行為として“できる”力も必要です。

一言でいえば・・・『介護過程を実際に“できる力”』でしょうか。

しかし、良く考えれば、これは本記事中でいうサービス業に位置付けられている事業者さんでもできることです。

つまり、極論を言えば、介護福祉専門職だろうが、サービス業だろうが『介護過程を実際に“できる力”』とそれに伴う『結果』が求められるのであって、形態や分類はどうだって良いのです。
ですが、私たちは介護福祉専門職やサービス業という言葉の分類を前にすると、この『極論できて結果が出せること』という点を見ないで、“どうやっているか?”という表面を見ることに終始し、批判をしあい、思考停止になってしまう。

このことに警鐘を鳴らしたかったのです。


最後に、あえて付け加えるとしたら『介護過程を実際に“できる力”』と『結果』と同じくらい、一人の人間として利用者と関わる中で生まれる人間同士の相互作用、ケアリング、心のふれあい、というような抽象的不確定要素も大事なものだと言いたいです。

そこが、単なる専門バカと、プロの介護福祉士との最大にして唯一の違いではないかと思っています。
Posted by kinsan at 2011年03月23日 00:15
ひとりさんコメントありがとうございます。

さて、今回例として挙げたような事業所のサービスは介護保険制度の給付対象としてやるべきものではないのではないか?という御意見ですね。

私はおおいにやって構わないと思いますよ。

よく考えてみたらですね、例えば2の入浴のデイも、3のフルコースのデイも、おそらくもらっている介護報酬は他の同規模、同地域加算の事業所と一緒です。というか、一緒に決まっています。介護保険制度事業ですから。

入浴に関しては加算による単価も同じに決まっています。
フルコースデイは食事は実費になりますから、おそらく他のデイよりも高い食事代を了承したうえで利用されているのでしょう。


となるとですね、上記の事業所は、もらっている報酬は(言葉は悪いですが)特別な企業努力もなく、大した特徴も打ち出していないフツーのデイと全く同じでありながら、提供している内容は例え一部の層であっても確実に高い質のものといえるでしょう。

逆にいえば、大した企業努力もせず、利用者の尊厳や自立支援どころか、マイナスのストロークを投げ、自尊心を低下させているような事業所も同じ報酬をもらっているとすれば、こちらこそ給付を外すべきではないでしょうか?

介護保険制度。価格競争無き準市場。

我々は社会保険であるこの制度の、どこになら介護報酬を支払うべきでしょうかね。少なくとも業界外の保険料を納めている一般の方はどこに払いたいと思うでしょうか。。。
Posted by kinsan at 2011年03月23日 00:27
飯塚さんコメントありがとうございます。

アメリカではシニアビレッジやリタイアメントコミュニティが成功しているそうですね。日本の茨城?にもそのような集落があると先日NHKの特集で見ましたね。そんなコミュニティ。。。支えているのは自立の国民性でしょうか。マズローの所属の欲求でしょうか?

北欧の高福祉はどうなのでしょう?手厚い福祉。ゆりかごから墓場まで。支えているのは10%の消費税にも戦々恐々とする日本人からは想像できない重課税。


日本はどんな社会を目指すのでしょうか。あてがわれていくのでしょうか?

その地域で、トータルに包みこんでケアしていくようなシステムが必要なのでしょうか。。。。

この記事を書いていて、ふと思ったのは、今一番その人一人を家族なども含めて包括的に支援しているのは、小規模多機能と宅老所なのかなぁと思いました。

反省だけなら猿でもできる。
生きるを支えるだけなら医療でもできる。

その時あなたは何をする???どうする??どうする???オレ???らの介護!byライフカード!
Posted by kinsan at 2011年03月23日 07:47
その通りだと思います。

思考停止してしまう人に限って、「サービス提供の根拠」「結果」を重要視しません。

自分は「心」をこめて介護しているから
自分は利用者に「愛」があるから等、

「優しさ」「思いやり」「まごころ」という言葉を隠れ蓑にして、
専門職としての責務(学ぶ・考える・発信する)を疎かにしています。


そして私は、やはりサービス提供の目的も大切だと思います。

介護士は、介護をすること
医師は、医療行為をすること
美容師は、髪を切ること
農家は、農業をすること
企業は、利益を上げること

これらは、その事業の「目的」ではなく、事業が存続していくための必要最低条件にすぎません。
介護を通して、医療を通して、商品を通して「社会・人にどのような貢献ができるのか」が
事業の目的となるのだと思います。

目的がないと、社会事業失格
根拠がないと、専門職失格
結果が出ないと、存在意義すら危ういということでしょうか。

介護の目的が、
いかに食事を充実させるか、
いかに入浴を充実させるか、といった「方法論」に終始しているうちは、
その事業所に発展はないかなと思います。

長文失礼致しましたm(_ _)m
ブログの更新楽しみにしております。
Posted by ふくしいぬ at 2011年03月24日 11:29
ふくしいぬさんコメントありがとうございます。

業界が方法論に終始していることは散見されますね。
もちろん私の事業所も、クレドという経営指針を大事にしておりますが、実際は方法論の話が多いです。しかし、クレドが明確に共有されているからこそ方法論を話し合う意味と価値が生まれるのだと思います。そこが抜けてはいけませんね。


ふくしいぬさんの最初のコメントを拝見していてふと

QOL((Quality of Life)クオリティ・オブ・ライフは医療・福祉などの専門職が目指すことがらとして挙げられていますが・・・
その人の生命、生活、人生の質を向上させるとは、よく考えたら、どんな業界でも当たり前のことなのでは?と気づきました。

ふくしいぬさんの言葉で言うところの>「社会・人にどのような貢献ができるのか」

が当たり前であり、『どのような貢献ができたか』=結果が大事になってくるのでしょう。

Why(なぜするか?)=その人のQOL向上のため、その人と社会に貢献するため
What(なにをするか?)=介護行為とその行為に伴う一連の行為をする
How(どうやってするか?)=方法論

この順序でしょうか。




さて、その結果が視覚化しづらく、個別性があり、絶対的な正解がないということに対して私たちはどう立ち向かっていきましょうか・・・
Posted by kinsan at 2011年03月24日 14:27
「どの仕事も、社会・人のQOL向上を目的としている。」

この考え方は、
藤屋伸二さん著書の『20代から身につけたいドラッカーの思考法』中経出版 から学びました。

「企業」の意味・在り方が理解でき、
福祉業界にも応用出来る理論が多くあります。

おすすめの本ですよ☆


介護の成果をどのように数値化・具体化するか。
とても面白いテーマです。
私なりにじっくり考えてみます。
Posted by ふくしいぬ at 2011年03月24日 23:40
ふくしいぬさんコメントありがとうございました!


どこかで聞いた言葉だったのですが、ドラッカーでしたか。確かに書いてありますね。ドラッカー関連本は読んでおります。

彼のマネジメントを題材にした本として有名な『もしドラ=もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら』(ダイヤモンド社)の著者が言っていました。

「ドラッカーのマネジメントは、企業や組織だけではなく、個人も自分自身をマネジメントすることを学べる本である。この本を若い世代、中高生に読んでもらい、今の閉塞的な世の中において自分をマネジメントして生きてほしい」

とのこと。

私たち介護に携わる者が、人に社会に何ができるか?そのように考え職務を全うすることが求められますね。

結果と評価について、色々と考えてまいりましょう!
Posted by kinsan at 2011年03月25日 07:15
簡単に言って、モノを売らない仕事がサービス業です。それ以上でもそれ以下でもありません。
「介護は専門職による福祉支援」も当然サービス業に含まれます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9
Posted by kaigetu at 2011年03月27日 07:22
kaigetuさんコメントありがとうございます!

Wikipediaの引用による定義は簡単明確ですね。
ただ、引用いただいた文中でもサービス業の範囲はその使用される状況や資料により異なるとありますね。

広義には第三次産業と同意とありますが、第三次産業は現時点では第一次、二次産業に当てはまらないものという、その他の扱いです。しかし、第四次産業という分類も議論されつつあるなか、この流動的な分類だけでは説明しきれなくなっているかもしれません。
また狭義のサービス業においては医療福祉はサービス業ではないということごご引用された文中にあります。

つまり、一方で福祉分野に属する介護はサービス業ではないと言っていますね。介護はサービス業かどうかというテーマはそんなに簡単に解釈の結論を出せるものではないと私は思うのです。

簡単明確に全てを理解しようとすることは楽です。しかし、私はそこにこそ思考停止の落とし穴があると危惧しております。

クレジットカードを作るときなど、職業のチェック欄に、サービス業、医師弁護士などの専門職とあるのをよく見ます。ここで介護職が自信を持って専門職にチェックできるまでになりたいと私は考えています。

サービス業か福祉か?ということにこだわる意味はそこにプライドと夢があるからです。

言葉は行動になり、行動は習慣になり、習慣は性格になり、性格は生き方になるというマザーテレサの言葉があります。

私は介護はサービス業ではなく専門職による福祉支援という言葉を大事にします。
Posted by kinsan at 2011年03月27日 13:40
介護の仕事で結果は何を目標にしているのでしょう。 世間の言葉の使い方を言えばサービス業扱いにもなるし、考え方でならないかも知れません。 介護はもっと違うことにプライドを持つべきです。 利用者さん、入居者さん、その家族や支援する方々。 どの人もきっと思っていると思いますよ。 保険を使わずとも生きていける生活を。本当の意味での助け合いレベルでの生活が出来るなら良いわけです。 医療が治療によって元気な状態に戻すことをプライドとするならば、介護はその方が先の状態にまで戻る可能性のある方なら、戻す事とその手法にプライドを持つべきであり、そこまで戻らないならその方のニーズを汲んでのその人らしい生活支援を見つけていくことから始まると思います。 ここ最近の介護を見ていると、やたらと集団による会等があるものの、現状、1人1人の現場での問題解決や質の向上につながっているケースを殆ど聞いた事がありません。参加している介護職だけが満している傾向が強いものもありますし・・・

様々な形で取り組んだ結果、●●まで生活状況が改善されて、その次の目標が●●出来た・・・

なんて報告は殆ど聞かないでしょう? 
介護職は、まずしっかりと本人や背景をみて、利用者さん、入居者さんを元気に希望が持てる状態にすることにプライドを持つべきです。それがサービスと呼ばれたとしても、喜んでくれる利用者さんがいればそれが一番の答えじゃないかと。 専門性というものは、

「その目的が明確であるが故に成り立つもの」だと私は思います。 

よって基本、手段は問わずとも元気で希望がもてる状態になるならば、それがお互いに一番の求めている答えではないでしょうか。
Posted by さざんぱーく at 2011年03月28日 14:37
さざんぱーくさんコメントありがとうございます。

究極的なご意見でありながら、だからこそ私たちは悩むのではないかと思います。

助け合い、先の状態に戻る、ニーズをくむ、その人らしさ、元気、希望、喜ぶ

難しいですよね。難しい。だから悩み考える。

考えて考えて考え抜いた先に、考えたってしょうがない。自分にできることをまずやろう!
そしてまた行動しているうちに、なぜだろう?なんだろう?どうしよう?ということを考える。
この繰り返し。


哲学とは、それまで当り前だと思っていた身の回りの物事に違った視点を与えて、物事の見方を変えてしまう営み。破壊と創造の営み。

介護はこれをしつづけることに意味があるのかもしれません。


求めている答えにたどりつけるならば私たちはどんな道を通ってもかまわないと思います。

しかしながら、私たちは少なくとも日本の社会保障制度や介護保険制度の中で働く社会的労働者としての介護専門職です。
その道から求めている答えにたどりつける方法を、この道だからできることを探求し実践すること。これに尽きるのでしょう。。。

ちなみに
>様々な形で取り組んだ結果、●●まで生活状況が改善されて、その次の目標が●●出来た・・・

これは雑誌や学会誌その他いろいろな方々が研究し、実践していらっしゃるようですよ。
また、発信していないだけで、愚直にただひたすら実践されている方々もいらっしゃるようですよ。


Posted by kinsan at 2011年03月29日 07:25
その通り専門職なのです。よって実践する内容にはきちんとした狙い(専門性からの視点)が
なければ、ただの思いつきケア、なんとなくいいかもケアになりかねないのです。
介護保険制度に基づいてでもやれることは沢山あります。サザンパークも当然その制度上で
おこなっているものです。 でもあきらかに通常のデイとは違う部分ははっきりと出せています。
取り組んだ結果して、どうなったか??? 介護保険を使わずとも、引っ越しをされて日々を
過ごせるようになった本当の自立の一歩を踏み出した方が4名、周囲の助けや一部のボラ等を使い
ながら自立へ向かった方が10名、どちらとも次の目標は、現状の維持と定期的な社会生活への参加
なのです。 自分で出来ること、表現し結果を出していくこととはこういうことだと思います。
まだまだ取り組みとしては足りてないのです。でも、その過程に至るまでにはきちんとした根拠と
理由があり、目標もあるわけです。挨拶も聞こえるように言わないとそれは挨拶とは言えません。
この例えと同じ事が介護の世界でも多々あります。 自己満足自己理解にとどまらず、表現すべきことはきちんと表現するからこそ、人はそれを見て学び、悩み、考えて、答えを探すのだと思います。
少なくとも私はそうやって一つ一つ築いてきていますし、現に今も求め続けてます。
ニーズをとらえたケアをするのが専門職です。 ニーズをとらえず業務の効率の追求をするのが職人です。専門性は一言では言えないですが、取り組んできた結果としての一つの答えでもあります。
Posted by さざんぱーく at 2011年03月29日 12:32
さざんぱーくさんコメントありがとうございます。

これまでのさざんぱーくさんの実践と実績と結果とそれにいたる根拠とプロセスと目標。
全てに敬意を表します。

私はさざんぱーくさんのおっしゃる、根拠を持ち、そして目標に向かってのプロセスを経た結果、そしてその結果を受けてさらに次なる目標へ、というサイクルを介護専門職の行うべき基本的営みだということに同意します。更にそれを実践し続ける中で悩み考え、答えを探すことを積み重ねることの重要性にも同意します。


これらが多くの介護現場ではできていない。十分に取り組まれていない。もちろん私も十分にできているとはとても言い難い。しかし、やることの意味を知った上で“やろうとしている”と自覚しているつもりです。

この当り前のことがあって、初めて介護は社会的に専門職として認知されるでしょう。だからこそ、ここを強く主張されることに私は強く同意します。



強く同意したうえで、私もここを目指してることをお伝えしたうえで、あえてお伝えしたいです。

根拠を持ち、目標に向かってプロセスを経た結果が必ずしも良いものになるとはいえない。
私たち介護職にとって良いものではないかもしれない。
本人にとって良いものではないかもしれない。
家族にとって良いものではないかもしれない。
良いものと思っていたことがくつがえされることがあるかもしれない。
自分たちが自信と確信を持って取り組んだことが良くない結果につながることもあった。
自分たちが妥協と諦めをしてしまったにもかかわらず、良い結果だと言われたこともあった。

後悔、懺悔、苦悩、それでもなお、正解は見えない。

モラル・ジレンマやアイデンティティクライシスに陥ることが本当に多い。


こともある。


さざんぱーくさんは私と同様通所介護事業という事業形態にお勤めだと思います。

ここは、先の根拠〜結果のサイクルが生み出しやすく、われわれ専門職と本人家族の望む目標が一致しやすく、結果に対しての振り返りが他の事業形態よりもブレにくい現場だと考えています。


しかし、必ずしもそうではない介護現場も多い。

ADLや社会資源活用による“自立”なんて全く必要としていない人もいる。
経済的・身体的“自立”よりも優先順位が高い“自立”を必要としている人もいる。

そのような現場では、先のサイクルを当事者一致で生み出すことは実に難しい。


私は現事業所に就職してから3年間はそのことに気づきませんでした。



そのことも含めて、介護に求められる専門性をともに探して行けたらと考えます。
Posted by kinsan at 2011年03月30日 07:58
どうも。
>つまり、一方で福祉分野に属する介護はサービス業ではないと言っていますね。介護はサービス業かどうかというテーマはそんなに簡単に解釈の結論を出せるものではないと私は思うのです。
私が先日挙げたのは「テーマ」ではなくてただの分類、定義の話なんですよ。だからそのサービス業かどうかという議論を深めようというのなら(私もそういう志を持った一人です)サービス業とは何か、その定義からまず明らかにしなければなりません。広義の定義で言えば、何らの実物的な財も生み出さない福祉はサービス業であって、いややっぱりそれはサービス業ではないんだ、サービス業として一括りにしてしまうと様々な弊害があるんだ、とお考えならば、まず、その狭義のサービス業についてきちんと定義を明らかにしなければならない。そこが欠けていると、いつまでたっても議論に参加する各々の主観のなかに形成されている「サービス業」がそれぞれの頭の中にあって、話がかみ合わない。

議論(意見交換)においては言葉が重要なのではなくて、その言葉の持つ意味が重要だとは思いませんか。もちろんkinsanのおっしゃるように、あるいは引用された句にあるように、言葉それ自体の持つイメージが世に大きな影響を持つこともあるでしょうし、そこを目指すのは結構だと思います。しかしそれはあくまでも結果でなければなりません。例えば今この瞬間、単に言葉上、あるいは漠然と介護職が専門職として認知されたとしても、中身が伴わなければ意味がない。中身というのはこの場合、実質的に、まごうことなき専門職として介護業務が行われているということではなく、理念上、あるいは論理的に中身を伴っているということです。

私は日々、現場において主観で議論する弊害に悩まされています。例えば「身体拘束」。カンファの参加者全員が身体拘束という同じ言葉を使っていても、それぞれが持つ身体拘束の意味が違う。境界線も曖昧で、結局は正しい結論とは程遠い、声の大きな「おばさん」による観念的な道徳的な説教に伏される形で決着してしまうこともしばしばです。そのようなことにならないために、定義をはっきりさせること、その定義に至るプロセスを正しく導き、その道程を共有することが議論(意見交換)において最も大切なのです。
Posted by kaigetu at 2011年03月30日 20:33
kaigetuさんコメントありがとうございます。

なるほど。議論を深めるため、また信念対立や水掛け論になりかけている当記事の私と諸氏のコメントに対して、言葉の意味、定義の重要性を示してくださったのですね。。
私の拙い読解力に対して、また的外れな返事に対して冷静なレスポンスを頂き感謝いたします。

以前、kaigetuさんと同じように、自分の中の言葉の意味を私が明確にしないまま、文脈ごとに形を変えて使用していることに厳しいご指摘をくださった方がいらっしゃいました。

曖昧かつ個々の主観によって多様な使われ方がされる現場での“言葉”。。。

建設的かつ、実際的な議論を求め、公に発信するのであれば、私自身責任を持たなくてはならないですね。反省すると同時に、ご意見ありがたく頂戴します。


さて、私は今この『狭義のサービス業』を定義づけようとしてみます。

第三次産業のうち電気・ガス・熱供給・水道業、情報通信業、運輸業、卸売・小売業、金融・保険業、不動産業、飲食店、宿泊業、医療、福祉、教育、学習支援業、複合サービス事業、公務に分類されないものを指す。

※しかし、こうした表現以上にサービス業を定義することは難しいとありますね。

すると、『福祉』から定義した方が良いかと思いますが、そうなると『福祉=介護』かどうか?ということで新たな議論になりますね。

それにもかかわらず『介護は専門職による福祉支援』というまた言葉を我流解釈して使っていますね。お恥ずかしい。


kaigetuさんの『介護、福祉、サービス業』に関する定義やご意見を教えていただけませんでしょうか?勉強させていただけたら嬉しいです。それをもとにまた深めていけたらと思います。
Posted by kinsan at 2011年03月30日 21:59
さて、以下の内容。

根拠を持ち、目標に向かってプロセスを経た結果が必ずしも良いものになるとはいえない。
私たち介護職にとって良いものではないかもしれない。
本人にとって良いものではないかもしれない。
家族にとって良いものではないかもしれない。
良いものと思っていたことがくつがえされることがあるかもしれない。
自分たちが自信と確信を持って取り組んだことが良くない結果につながることもあった。
自分たちが妥協と諦めをしてしまったにもかかわらず、良い結果だと言われたこともあった。

引用してます。
もちろんすべてが良い結果になるとは限らない。ただ言いたいのは何の根拠も目標なく惰性や思いつきでやっていることに警鐘を鳴らしたいのです。 結果が悪くてもその内容や取組にきちんとしたものがあれば、悪いなりにまた新たな取り組みに向かっていけるのです。介護の現場がまだまだなのは十二分に承知してます。だから発信する必要があると思いませんか?自覚していることを形にして。

先にも書いたとおり、諦めたけど上手くいった・・・この時にそこで終わるから繰り返しがある。
なぜ諦めたにも関わらず結果上手くいったのか??これを知ることが次へとつながる。もちろん逆の時も同じ。サービス業か否か?からの議論からは少し外れているかも知れませんが、kaigetuさんの中にあるように、

中身が伴うもの

でなければ、どっちのとらわれ方だったとしても意味がないし、現場はそれでは変わらないのです。地道ですが、一つ一つ根気よく積み重ねていくことに意義があるかと思います。


ADLや社会資源活用による“自立”なんて全く必要としていない人もいる。
経済的・身体的“自立”よりも優先順位が高い“自立”を必要としている人もいる。

引用してます。
きんさんがあげているこの2種は、プロセスさえ踏めない人が果たして少しでも良くなる可能性の道へと進むことができるでしょうか? 私は無理であると思います。
人は失敗から学び、成功から喜び、行動から知るものであると思います。
だから簡単に答えが出ることなどないはずです。まして、人を対象とするこの職種は。
ただ、多くが望み目的にしていることは、介護保険を使わない自立であると思います。
これは、職員も周囲も本人もほとんどが願わくば・・・だと思います。
目の前の利用者さんにとって何が良い方向へ向かうものなのか?
介護ってこれを半永久的に求め続ける仕事かと。
何度となくのコメント失礼致します。
Posted by さざんぱーく at 2011年04月01日 13:19
どうも。
kinsanの中にはすでに(言語化できていないだけで)「サービス業」あるいは「サービス」についての定義があるはずです。それを、ご自分の言葉で一度表現してみませんか? その結果、それがサービス業と呼ぶべきものかどうかが明らかになるかもしれません。ちなみに私が認識していたサービス業は広義のそれであって、狭義のサービス業について特に考えてみたことはありません。

単に日本標準産業分類に定義されたものを引っ張ってきても、kinsanが何を言わんとしているかを説明するに足りないでしょう。なぜならあれは消極的な定義であって、それが何であるかを具体的に説明したものではないからです。つまりこれまで「サービス業」と呼ばれていたものを可能な限り分類した結果、分類しきれなかったものを「サービス業」と呼ぼうという話ですから、一般的な意味合いは全くないと言っていいでしょう(つまり世間に流通する言葉ではないということです)。

あくまでも私の想像でしかありませんが、kinsanのこれまでの記事を読んで思うのは、

@利用者が今現在欲している需要に応えるべく工夫をしていくのは「サービス」
A利用者本人が今現在欲している、いないに関わらず、その人の潜在的、本質的なニーズに答えていくものは福祉

であるとお考えなのでは。だとしたらそれは「サービス」を誤解されています。サービスとは単に形のない財のことをいうのです。

しかし、@とAを混同されることに危機感を感じられるのはもっともですし、そこは明確に区別しなければならないのも確かです。kinsanは本質的に非常に重要なことを語っておられると思うのですが、「サービス業」という言葉にこだわるべきではない、と私は思います。この言葉にこだわるあまり、議論がぼやけてしまっている。

>kaigetuさんの『介護、福祉、サービス業』に関する定義やご意見を教えていただけませんでしょうか?勉強させていただけたら嬉しいです。それをもとにまた深めていけたらと思います。

残念ながら私には物事を簡潔に明文化する才はなく、明確な定義を文章化する任にありませんが、お言葉に甘えて私の意見も書かせていただきます。介護の定義というのは正に流動的で、超高齢化社会を迎えるこれからの時代、その定義を含めて発展、成熟していく分野であることは疑いありません。そのような中で、私一個人が介護とは何かを考えますと、やはり何と言っても「自立支援」という言葉が非常に重みを帯びてきます。何しろ現在の介護福祉士法の定義では、介護業務の存在存続自体が危ういのです。この言葉の意味が時代に合わせて柔軟に、しかし正しく理解され実践されていくことが最も重要だと考えます。

そのように正しく解釈された「自立支援」が一般的な言葉として流通するようになったとき、その時に初めて介護という仕事が単なる「お世話」ではないんだ、そんな間違ったことをしていたらこの国の介護は破たんしてしまうんだということが理解される「土台」が出来上がるのだと思います。そして(だいぶ端折りますが)介護職が名実ともに世の中から必要とされ、かつ尊敬されるに値する職業となった時、自然、「サービス業」という括られ方をされなくなるのだと想像します。
Posted by kaigetu at 2011年04月01日 21:21
さざんぱーくさんコメントありがとうございます。何度もコメント頂けること失礼ではないです!本当にご意見いただけること嬉しいです。


さて、これらのご意見↓

>目の前の利用者さんにとって何が良い方向へ向かうものなのか?
>介護ってこれを半永久的に求め続ける仕事かと。

>言いたいのは何の根拠も目標なく惰性や思いつきでやっていることに警鐘を鳴らしたいのです。
>だから発信する必要があると思いませんか?自覚していることを形にして。

私は基本的にさざんぱーくさんと意見は同じです。



こちらのご意見↓

>多くが望み目的にしていることは、介護保険を使わない自立であると思います

人や国のお世話になりたくないという想い、介護保険を使わなくても自立できる生活は誰もが望まれる事だと私も思います。

しかし、私個人としては、介護保険を使っても気兼ねなくなりたいし、日本の充実した社会保障システムだと誇りを持ちたいとも思います。
「介護保険制度に頼っても良い!」「介護保険制度があるから安心だ!」と思ってもらえるような制度に私たちがしていきたいという夢があります。

年をとっても「年金がある」という安心くらいに。
今の世の中「できれば年金のお世話にはなりたくない!」という方は稀です。
介護保険制度もそのくらい国民の安心になりたいですし、私たち従事者がそのような制度にしていくことを夢見るのはどうでしょうか?




さて、さざんぱーくさんと若干の差異があるような意見交換の原因を考えていました。が、わかりました。


>ADLや社会資源活用による“自立”なんて全く必要としていない人もいる。
>経済的・身体的“自立”よりも優先順位が高い“自立”を必要としている人もいる。
>引用してます。
>きんさんがあげているこの2種は、プロセスさえ踏めない人が果たして少しでも良くなる可能性の道へと進むことができるでしょうか?私は無理であると思います

おそらくここに凝縮されていますね。

私もさざんぱーくさんも、お互いの現場と、自分が関わっている利用者への介護に関して自負があるでしょう。しかし、その対象としている利用者に大きな差異があるように感じます。


例えば私の事業所に来ている利用者。
チンピラ生活をしていて、クスリもなんでもやっていた人。親兄弟から勘当され、悪友と付き合い、警察沙汰も数知れず。
現在は糖尿病、変形性膝関節症による車椅子生活、要介護3。50代。車椅子を自走して生活しています。
生活の全てが破綻しています。尿垂れ流し。部屋も車椅子も着るものも全てに異臭がしみ込み、地域のあらゆる商店から出入り禁止を受けています。
病気の悪化でデイサービス利用時は毎回死にそうな顔です。しかし、病院にも借金があり、生活保護のケースワーカーを同居人が殴る傷害罪をおこし、行政からも弾かれています。
その同居人に、住まいを奪われ、外国人女性の愛人と居候されている。本人はこちらから貸している服などの物資を全て居候に奪われている。
生活費はごみ集積場で拾う本を古本屋に売っている。空き缶集めもしている。
彼の行き場所は夜の繁華街にたむろする、帰る家がない若い不良たち。


根拠と目標を持った計画にしても、在宅不在が何度もあり、デイの送迎もヘルパーも空振り。PDCAサイクルが機能しない。
(もちろん若干の効果はあります。しかし、全てが臨機応変。計画が計画にならない)
そのくせ、いきなりホームレスの様相でデイにやってきて(異臭を放ちながら)お茶を飲んで帰る。

おそらく彼はそのうち持病の悪化で亡くなるでしょう。しかし、私たちに彼を治癒する力はありませんし、治癒してくれる人も地域では見当たりません。本人も治す事の重要性がよくわかっていません。


うちの中年のパートさんたちは正直満足にプロセスを踏んだ介護はできていません。しかし、それでも、彼を『ここがおれの唯一の居場所だよ!』とエンパワメントできている。
これは少なくとも良い可能性への道になっていると思います。

うちのスタッフにしみ込んでいる介護の姿勢は、倫理、理論、などで言語化することは可能でしょう。
しかし、私たちがやっているケアは、(言葉が見当たらないのですが)『愛』みたいなものが根底にあるように感じます。

人間性とでもいいましょうか。。。

そんな利用者がわりと多い現場なんです。うち。生保、独居、困難ケース。生き倒れもたまにいます。

だから、当たり前の根拠と目標と振り返りのサイクルが今まで抜けていた。
言葉にならない『愛、人間性』みたいなものに頼り過ぎていました。


>何の根拠も目標なく惰性や思いつきでやっていること

私の事業所の介護は惰性ではありませんが、“感覚”でやっていたことは否めません。


だから、私はさざんぱーくさんが主張される事に全面的に賛成し、これからの介護にはそれが必要だし、積み重ねていかなければならないと考えています。

しかし、私たちの事業所が10年以上積み重ねてきたそういう無形のものにも、対人援助職として必要な要素があると思うのです。私はそれを言葉にしたい。そしてそれを素質や本来持っている人間性、などという聖域から脱却させて学び身につけられるものにしたいのです。
それすらも、介護の専門性としていきたいと考えているのです。

介護福祉士の新カリキュラムの第一巻に『人間の尊厳』が入ったのは、そうしたことの必要性が認められている表れではないでしょうか。

看護師がキュアに偏重しすぎた反省からケアに振り子が戻っていると聴きます。
介護はケアを手放して、専門バカになってはいけない。(もちろんやるべき専門性はしっかりやる)
そこが私が一番こだわってしまうところなのだと思います。
Posted by kinsan at 2011年04月02日 07:28
kaigetuさんコメントありがとうございます。

私のカオスな記事から要点を抽出してくださってありがとうございます。

文面としては確かに

@利用者が今現在欲している需要に応えるべく工夫をしていくのは「サービス」
A利用者本人が今現在欲している、いないに関わらず、その人の潜在的、本質的なニーズに答えていくものは福祉

このように捉えているように見えます。

しかし、kaigetuさんがこうして明文化してくださったことで『あれ?どちらも必要だし、サービス業も、福祉もやらなければいけないことじゃないか?』と感じました。

すると、私の中で二つの言葉に対する明確な定義づけができていなかったことを実感しました。

これまた混乱しておりましたが、最後の一文に私の腑に落ちる箇所がありました。


>介護職が名実ともに世の中から必要とされ、かつ尊敬されるに値する職業となった時、自然、「サービス業」という括られ方をされなくなる


これですね。

医療従事者の提供するものは一般的に『サービス』とは言いませんね。(言うようにしよう!というビジネス精神が侵攻してきていますが)

それは、サービスという現在の雑多なその他のくくりではなく、世間一般から、専門性と尊敬を得ている“業”たるものになっているからでしょう。

介護は福祉だ!サービス業だ!と言っているうちはまだ、こうした専門職による“業”になっていないことのあらわれかと思いました。

介護は福祉だ!専門職業だ!と我々自身が規定するのではなく、世間から認められて自然になるものなのかと。。。目からウロコというか、発想の転換が起きました。

ですから、さざんぱーくさんやふくしいぬさんはじめ、多くの方が言及されている、一つ一つの真摯な取り組みと積み重ねが大事なのだろうと思います。あとはその共有と研究と検証と還元ですね。


すると、kaigetuさんの『自立支援』のように、自分の中に一つ芯の通った介護の中心概念を持たなくてはならないと感じました。
私の尊敬する方々は皆シンプルかつ明確な中心概念を持たれていました。。。

今の私の中には深い意味を熟慮した明確な中心概念がないことに気付きます。

気付きを与えてくださりありがとうございました。

少し、現場と書物と自分の中とを行き来して探してみたいと思います。
Posted by kinsan at 2011年04月02日 07:44
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