介護職は全能なる神か?

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介護職は全能なる神か?

2011年8月23日


介護業界では、介護職と利用者のあるべき関係性について『対等な立場』『同じ目線で』『相手のところへ降りていく』『同じ人として』などと表現されることが多いです。

今回と次回の記事でこれらのような介護職と利用者の理想とされるあるべき関係性(以下:理想的関係性)を目指してはいけないということを書いてみたいと思います。


さて、まずどうして理想的関係性を掲げるような状態に介護業界があるのかを簡単に考えてみたいと思います。

介護業界にこのような理想的関係性の考えが広がったこと自体が新しいのです。

日本における老人介護の歴史、特に認知症の方にスポットを当てた宮崎和加子さんの『認知症の人の歴史を学びませんか』(中央法規)などではほんの数十年前の認知症の方への介護の現状が写真付きで書かれています。
認知症の高齢者に限った資料ですが、介護という業態がいかに短期間で価値理念からして変化してきたかということがわかります。

きっかけとなったのはやはり『介護保険制度』が始まった2000年頃だと思います。
措置から契約へ、民活導入、というキーワードからもわかるように、これまでの“処遇”や“お世話”から“サービス”“接客”“ホスピタリティ”という考えに変わったのでしょう。
加えて社会福祉士及び介護福祉士法の一部が改正され、介護福祉士の在り方も単なるお世話から、自立支援や尊厳というものがより重視されるようになりました。

このような背景から介護業界で理想的関係性が掲げられるのは、それまでの“処遇介護”に対する警鐘を鳴らし“介護サービス”としてあるべき姿になるためだと私は考えています。


さて、理想的関係性が求められるということは、前提条件として理想的関係性が“完全に達成されていない”ということを意味します。

つまり、誰もが利用者と対等な立場で介護をしていないから、『対等な立場で』やりましょう!と言われるわけです。



ここまで理想的関係性の介護業界における現状を見てきました。

介護に従事している者全員が理想的関係性もできていない中、このようなことを言うのはおかしいかもしれませんが、私はこの理想的関係性を目指さない方が良いのではないかと考えます。

このうように考える理由は『私たち介護職の仕事はパターナリズムを前提としている』と考えるからです


私の現場での経験談をご紹介いたします。



うちのデイサービスでは利用者さん4名で麻雀が行われています。
元気な現役世代のようにスムーズにはいきませんが、参加者が仲間同士で楽しむ時間となっています。

しかし、参加者は要介護者なので、体調が悪くて欠員が出たり、認知症状などが進行して次第にできなくなったり、入院・入所などでメンバー交代という問題が出てきます。


ある曜日もこのような課題に直面しました。
主要メンバーの一人がデイ終結になり、4人目のメンバーがいませんでした。

かつて麻雀をやったことがある人や、初めてだけど興味があるという方等を4人目に誘いました。
しかし、ルールが曖昧で、ゲームの途中に教えたり中断しなければならなかったり、3名とウマが合わなかったり、体力的に1ゲームで精一杯、など、なかなか3名が満足できる4人目が見つかりませんでした。

4人目の候補者が全くいない日はスタッフが入ることもありましたが、周囲に気を使える3名なので、スタッフを一人麻雀に独占すると、現場が大変になるということを察していらっしゃいました。


このような現状に対して私は次のような提案をしました。
『3名の利用者さんに、スタッフを誘っても良いですよ、と提案をする。もちろん難しい時は断ることもお伝えする』
理由としては
・3名の利用者さんは麻雀をやることをとても楽しみにデイに通われている。
・4人目のメンバーが満足に麻雀をできないと、3名は心から楽しめていない。
・スタッフが入った時は『スタッフが入ってくれると本当に楽しい麻雀だわ』と3名が言っていた。
・遠慮せずにスタッフを誘えるということになれば3名の選択の幅が広がり、自己決定できる。

もちろん、人員がきつい時はお断りもしましょう。それでも3名が満足を得られるためにスタッフを誘っても良いですよ、と伝えたいのです。と。


私のこの意見に対して先輩職員が真っ向から反対しました。
『スタッフを誘うかどうかは3名が考えて決めることだから、私たちがあらかじめ伝える必要はない』というのです。


私:3名がスタッフに遠慮して満足な楽しみを毎回得られないことはおかしくないですか?

先輩:3名が他の利用者を誘って十分な満足を得られないとしても、それはその3名が考えて選んだことではないですか?

私:人員的に難しい時はお断りすることも伝えるんです。だから選択の幅を広げることとして良いではないですか?

先輩:それを3名がご自分たちで考えて行動するべきだと思うんです。スタッフに遠慮することは3名の力ではないですか?遠慮して選べる力が3名にはあると思います。何から何まで私たちがやってよいとは思いません。

私:3名の力を信じて尊重することは大切ですが、不満ばかりを味あわせて良いのですか?選択肢として伝えることの何が悪いんですか?3名の満足を考えるのは僕ら介護職の当たり前の勤めではありませんか?

先輩:だから、不満を味わってはいけないのですか?遠慮してはいけないのですか?それも3名のその人らしさではないですか?

私:わかりません。介護職として利用者が満足してもらえるような配慮をして何が悪いんですか?完全なYesマンになるわけではありません。選択肢を提供するんです。

先輩:3名が4人目との新しい関係を築けるかもしれないでしょ?中断しながら教えることも良いことではありませんか?新しい3名の可能性をつんでしまうのですか?

私:だから、4人目を選ぶのもスタッフを選ぶのも3名の自由。しかし遠慮している中ではそれにブレーキがかかる。3名のために選択肢を提供することは良いことでしょ?

先輩:だから選択肢を提供するということ自体がおこがましいと思うんです。私たちにそんな権限があるんですか?私たちはそんなに偉いんですか???


この後は、お互いがどうしてそう考えるのかに対話が移行していきました。
(ちなみに私は語調も荒く、不満たっぷりで反論。女性の先輩は真赤に赤面しながら涙目で、しかしきっぱりと反論・・・)



今思い返してみると、先輩の言っていたことはとても示唆に富んでいた意見だったと思います。
今のサービス業的視点で介護を捉えると、私の意見の方が一見良い意見に思えるのではないでしょうか。

しかし、先輩の真意は、このような私の意見そのものが“おこがましさ”をはらんでいるということなのです。



介護職は神様ですか???利用者のためなら何をしても良いのですか???利用者の力や可能性を摘むことになってはいませんか???その介入・干渉は本当に必要ですか???



相手のためを想って、善意を持って、相手の自由や権利や行動や考えや意志に介入や干渉を行うことがパターナリズムだと思います。
(パターナリズムの明確な定義ではなく、類型も様々なので、これは私見の語彙です)

ここでは、私たち介護職と利用者の間には明確なパワーバランスが存在しています。それは知識、経験、技術、資格、情報、実行力、体力その他・・・

これは否定のしようが無い事実。

人は一人では生きていけないし、全て自分の意思で考え決定し行動しているようですが、周囲の人々やメディアや色々な物事に影響を受け、介入や干渉をされて生きています。

そして、私たちの仕事は基本的に利用者の生活や人生に介入し、干渉する仕事です。同時に利用者の自己決定や尊厳を保障し自立支援をする矛盾をはらんでいます。



私は考えます。

利用者と対等な立場ではないパワーを持った私たち介護職は、利用者の自己決定や尊厳を保障し自立支援をする仕事をしているのです。
つまり、パターナリズムを前提としているのが私たちの仕事なのです。

冒頭の理想的関係性はその事実を覆い隠してしまうのではないでしょうか。

パワーを持っていることを隠して、私たちと利用者が対等な関係であるという理想を抱かせ、自覚のないままに利用者に介入・干渉しているのです。


そうあってはいけない。


私たちはパターナリズムを前提として、そして、利用者の自己決定や尊厳を保障し自立支援をする仕事をしているのです。
ここに無自覚であってはならず、絶えずその前提を意識しながら、自分の利用者への関わりのパターナリズムが悪意になっていないか、自己中心的になっていないか?それを省みることがこれから求められる介護職ではないでしょうか。


最後に、理想的関係性は私たち介護職が目指すものではなく、上記のような関わりを通じて利用者側が「この人は自分を対等に見てくれている、一人の人格として尊重してくれている」と感じることが本当に意味なのではないでしょうか?
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この記事へのコメント
久しぶりにコメントします。

その先輩の考え自体は理解できる気がするのですが、本文に書かれているやりとりを読む限りでは、「そこまで固く考えなくてもいいんじゃないかな?」と感じます。逆にその先輩がパターナリズムに陥っているような感があります。別にいいじゃん、一緒にやれるときはやればいいし、そうでないときはゴメンナサイ。これが、何で介護職と利用者さんの関係になるとよろしくないんだろう?その、麻雀を一緒にやるっていうのも「支援」だから?

そして、自分たち介護職や相談援助職と利用者さんやそのご家族の間に、厳然たる壁(壁っていうのはあんまり的を射た表現ではないかな?)があるのは当然のことだと思います。それをきちんと認めて、自覚したうえで、そうでないときちんとした関わりはできないだろうとも思います。

前に呟いたんだけど、「優しいということは、優越であるということが隠れているという罠」って。これがお互いに補完できる関係ならいいんだけど、一方的なら...

で、最後に書かれている「理想的関係性」ですけど、目指してもいいと思いますよ。それはあくまでも「援助者と被援助者」という関係での理想的関係性でしょ?kinsanが書いているのは、そういうものでないひとりの人と人との関係ってことですよね。たぶん論点が違っちゃうと思います。
Posted by gitanist at 2011年08月23日 22:41
ん〜。読後感からの自分の直感が出てきていません。
私自身この記事の内容に答えが出せないのでしょう。
なにか引っかかるもの?
なにか違和感がある。
間違っちゃいないけど・・・なんだろう。
ちょっと考えてみます。
Posted by ウエッティ at 2011年08月24日 03:00
毎度、素人目線の発言です。

《スタッフを誘ってください。でも忙しければ断りますから》と言われたら・・・
「お願いしたいけど忙しそうだな・・・・・止めておこう」と判断(遠慮)してスタッフに声を掛けなかったら、その日「今日はつまんなかった」と言う感想は言えなくなりますよね。
Posted by jacob at 2011年08月24日 07:15
いつもながらの漠然と感じた雑感で失礼します。

Kinsanと先輩職員さんとの会話にどこか違和感があり それが何かをボォ〜っと考えてたのですが…。

多分 どちらの言い分・考えも正しくて間違ってる。
そんな気が。

ひとつの出来事をトリガーとして想像し思考を巡らすのはこの職に就く者として求められるというか その繰り返しではありますが 人の思考や思いって画一ではなく常に流動的で多面的。
同じ場面であれ そこにある心境・状況等は同一ではないとすれば 「べき論」だけではもしかすると本流から外れていってしまうリスクがある気がしています。

今回のやりとりは途中から利用者不在の状態。
…そんな印象…かな。

とはいえ こうしたことを重ね 互いの介護感を語りつつ対話を深めていくのは必要なことでもあり Kinsanの職場は本当に恵まれたいい所よね♪とは変らず思い続けています。

【理想的関係性】については お書きになられた「パワーを持っていることを隠して、私たちと利用者が対等な関係であるという理想を抱かせ、自覚のないままに利用者に介入・干渉しているのです。」と言いきることには少し違和感かもしれないです。

Kisanのいうところのバターナリズムを前提としながら【理想的関係性】を目指している人もたくさんいるというのはKisanご自身もお解りのことだと思うしね。

…勝手な解釈を書かせて頂きましたが いずれにしても 数値化・可視化できないものを文字で表現するというのは難しいですね…(-_-;)












Posted by mayupon at 2011年08月24日 11:07
gitanistさん久しぶりのコメントありがとうございます。嬉しく思います。

私の文章がイマイチでお伝えしたいことが伝えられずごめんなさい。反省しています。

先輩の方がパターナリズムだとか私の方がパターナリズムだとかではなく、こうした利用者のためにと思って私たちがカンファレンスしたり、アセスメントしたり、現場でむきあったりすること、全てがそもそもパターナリズムだと思うのです。少なくとも記事中の定義にあてはまります。
ですから、記事中の先輩との会話そのものがパターナリズムに陥っていると言えます。

でも、私たちはここからは抜け出せない。どんなに綺麗な理想的関係性を持ってこようとも、私たちが介護職として働き、利用者が要介護者として存在しているから、私たちは出会えたのですから、パターナリズムが前提であることは事実だと思うのです。

ですから、「援助者対被援助者」とは別に「人と人としての関係性」があると思うことそのものがすでに理想的関係性に隠されたパターナリズムに気づかないことになっていると考えます。

最後の文章はつまり介護職目線の目指すべき関係性ではなく、利用者目線、利用者発進の理想的関係性像だということです。
Posted by kinsan at 2011年08月24日 23:27
ウエッティさんコメントありがとうございます。

引っかかる何か、一緒に探してみませんか。
他の方のコメントや私のReコメントでヒントになることはありませんか?

違和感。

きっとこの記事にはあるのだと思います。

私としては、介護職としての行為全てがパターナリズムを前提としているということを主張しています。
そして、その前提を忘れてしまうような理想的関係性は私たち介護職から目指すべきことではなく、利用者がそう感じることで十分だと主張しています。

そして、前提であると意識して実践が行われることで、はじめて、相手の自己決定や尊厳の保障、自立支援が介護者主体でなく利用者主体で行われるのだと思います。
Posted by kinsan at 2011年08月24日 23:32
jacobさん、コメントありがとうございます。

ご意見ごもっともです。

ですから、私の意見も正解なようで間違っている。先輩の意見も正解なようで間違っている。同時にjacobさんの御意見も正解になることもあるでしょうし、間違いになることもあるでしょう。

絶対的正解が無い。

そして、このような意見交換をしながら利用者の生活や人生に介入・干渉することそのものがパターナリズムなのです。
しかし、そんなことを言ったら私たち仕事になりませんからね・・・

だから、前提になりえると思うのです。

私と先輩の会話そのものがすでにパターナリズムです。
Posted by kinsan at 2011年08月24日 23:35
mayuponさんコメントありがとうございます。

私の文章が伝わりにくいものでした。ごめんなさい。

mayuponさんが私と先輩の会話に違和感を感じて当然ですし、途中から利用者不在になっているように感じるというのも当然です。
なぜながら、そのように感じる例を挙げたので・・・

記事では省略していますが、私たちは3名の利用者の訴えや、心情の吐露、非言語情報などアセスメントしたことを6名の職員それぞれが持ち寄って共有し、より良い方向性を探ろうとした会話の一部です。

つまり、私も先輩も他の職員も一生懸命利用者のためを思って考えて意見交換しているつもりです。


でも、そもそもこのようなアプローチ自体が、パターナリズムそのものなのです。

それが言いたくてわかりやすい例を挙げてみました。

だから、この当たり前のカンファレンスや現場での実践も前提がパターナリズムであると。それを忘れてしまうと、利用者の自己決定、尊厳の保障、自立支援どころか、介護者主体の自己満足介護に終わってしまう。その一因に理想的関係性を目指そうとする業界の風潮がありはしないか?

それがこの記事の主訴です。

ただ、
>【理想的関係性】については お書きになられた「パワーを持っていることを隠して、私たちと利用者が対等な関係であるという理想を抱かせ、自覚のないままに利用者に介入・干渉しているのです。」と言いきることには少し違和感かもしれないです。

これはおっしゃる通りかもしれません。言いきることはできないかもしれませんね。

そしてもちろん、前提を踏まえて理想的関係性を目指している人がいることも十分存じているつもりです。
ただ、私はあくまでも、理想的関係性は介護職発ではなく、利用者発ではないかと思うのです。理由は何度も言いますが、パターナリズムが前提だからです。

いつもありがとうございます。
Posted by kinsan at 2011年08月24日 23:45
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