尊厳ある死について考える

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尊厳ある死について考える

2013年1月6日

今日は「尊厳ある死」とはなんだろうか?と自問自答してみたいと思います。
これは一部の海外で認められている、一定の条件を満たした場合に医師が意図的に死期を早める、いわゆる「尊厳死」のことではなく、人が尊厳を持って死ぬとはどういうことか?を考えてみたいということです。

先日、独居の方の御宅に訪問していたら、尊厳死協会から郵便が届いてました。
その方は「延命はしないで私は死なせて頂くわ」と笑っていました。
色々な観点から尊厳ある死を考えてみたいと思います。

1、独りではないこと?
死ぬ時に誰かが看取ってくれることは、尊厳ある死の条件の一つでしょうか?

2、どんな関係の誰が看取るか?
誰かが看取ってくれても、それが大切な家族なのか、疎遠な家族なのか、医療関係者なのか、通りがかりの他人なのか、警察なのか、大家さんなのか。
誰、いや、故人とどんな関係性がどのくらいある人が看取るか?
尊厳ある死の条件の一つでしょうか?

3、死の瞬間の看取りなのか?
息を引き取る瞬間、その時に誰かが傍にいることが大切なのでしょうか?それとも、死の瞬間は誰もいない、間に合わなくても、そこまでのプロセスが大切なのでしょうか?
死の瞬間の環境は、尊厳ある死の条件の一つでしょうか?

4、一瞬の死に尊厳はあるか?
例えば事故による即死、犯罪被害による即死、心疾患や脳卒中などによる即死。その瞬間に恐怖などを感じる間もなく死が訪れた時、それは尊厳ある死と呼べるでしょうか?

5、何か、誰かのための死は?
家族のため、愛する人のため、国のため、プライドのため、信仰のため、信念のため、死ぬことは尊厳ある死と呼べるでしょうか?

6、本人の意志の尊重?
延命を望まない本人が、本人の望むように死ねたら?高瀬舟のように嘱託殺人で死ねたら?本人が望むとおりに死ねることは尊厳ある死の条件の一つでしょうか?

7、いつの本人の意志?
本人が望む死を迎えられる場合、その本人の意志とは、本人がかつて意思表示ができていた時の意志なのか?死ぬ瞬間の意志なのか?意思表示ができなくなった時の意志なのか?
どの意志の尊重が、尊厳ある死の条件の一つなのでしょうか?


高齢者福祉業に携わる者として、「その人の尊厳の保持、尊重」は大切な使命です。
ただ、生を考えるとは死を考えることと表裏です。

思いつくままに尊厳ある死の条件を挙げてみましたが、古今東西、ずっと答えが出ないテーマでしょう。
そしてこのテーマ自体も時代や社会情勢によって変化していくことは歴史をみれば明らかです。また、その死の条件や環境も尊厳ある死かどうかを判別する要素です。

その時代のその社会における、その死の条件や環境下の、ある範囲における死は、尊厳ある死と呼べるものであり、その範囲を出ると、尊厳ある死とは呼べない。
そんな無常なものだとしたら。。。

今とこれからの日本は尊厳ある死をどのような範囲に見出していくのでしょうか。
少なくとも今の私たちがある程度スタンダードだと考える尊厳ある死は、私たちが介護を受ける時代には過去の遺産になっているかもしれませんね。


私が子供の頃、いじめといえば、ジャイアンみたいな“いじめっ子”がするものでした。
教師や学校、警察や政治家への不信は子供の頃は家族でビックリでしたが今は「またか」という程度。
一つの殺人事件は少なくとも半月くらいは報道されていたのに、今では一週間程で新しい事件。

たかだか30年あまりで常識は変わるものなんですね。


尊厳ある死なんて、将来はお金がある人だけの贅沢になってるかも。
Twitterでの呟きを目にしました。

ここまでの記事の考え方で捉えると、今では尊厳ある死とは呼べないような死に方でも、尊厳ある死と呼ばれる時代がくるかもしれない。ということです。


悲観してる記事ですねf^_^;

いやいや、だから今、尊厳ある死とはなんだろう?って考えて、それに向けてできる実践をしないと、抗わないと、本当に尊厳ある死は贅沢品になっちゃうよ、って心配してるだけなんです。

あと、自分や家族の死に方のためにもね。

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Category 介護

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この記事へのコメント
いつも興味深く拝見させていただいています。
テーマとずれてしまいますが、先日母と世間話をしていると「介護を受けずポックリ死にたいわ」と言われ、その台詞利用者様からもよく聞くなぁ、それは自分自身苦痛のためなのか、家族の介護負担のためかと考えていました。誰かのための死を尊厳死とするかは別として、介護負担による死を考えずにすむ時代にしていきたいですね。
育休で現場を離れていますが、そんなことを考えました。
Posted by まゆ at 2013年01月07日 23:23
まゆさんコメントありがとうございます。

哲学だったり発達心理学などのようにとらえると
「介護負担という苦難、試練を経て、人格が成長する」とか・・・

介護の教科書的にとらえると
「その苦しみを受容し、傾聴し、共感し」とか・・・

きれいなことはいくらでも言えるのですが、当事者になってみたらそんなこといえませんよね。
私も自分の両親が健在だからこんなことを言えるのであって、どこか客観的に書いていると思います。両親が介護状態になり、その苦痛を聞き、自分が介護家族になったらまた違ったことが書けるかもしれません。

ただ、今、介護職として色々な利用者さんやご家族の生きざまを見せていただいた中で感じることは・・・

介護というライフステージを通じて、利用者さんもご家族もさまざまな体験をし、家族のきずなが深まったり、何かを得たり、失ったり、成長している。だから、人間にとって大切な期間なのかな。と。
Posted by kinsan at 2013年01月12日 14:53
私の家族が闘病中なのですが、抗がん剤の副作用が辛いと使用を中止した時「なぜもっと生きようと頑張ってくれないのだろう」と死に近づく方法を選んだことに裏切られたような心境になりました。介護が大変と母に言われた時も思いましたが、家族のつながりはそんなものじゃないだろうと。尊厳死という言葉になにかひっかかる感じもしていました。
全く傾聴も、受容も共感もない私のただの我が儘で…。
生き、死に向かう過程、その中での尊厳や周りのありかたを冷静に考えるよいきっかけになりました。
ありがとうございました。
Posted by まゆ at 2013年01月13日 01:40
まゆさん、コメントありがとうございます!
ご家族との闘病生活、その中での想いをシェアして頂きありがとうございました。
私はどうしても対人援助の仕事をしている手前、ご家族よりもご本人の意志を尊重したいと思ってしまいます。しかし、ご家族にとってまゆさんは大切な家族の一人です。きっとご家族もまゆさんが苦しんでいることを苦しんでいるかもしれませんね。
介護は本人も周りの人も辛い想いにさせます。でも不幸にはしたくない。

私は父が脳梗塞で倒れた時、母から「あんたはなんだかんだで専門家なのね。なんでそんなに冷静なんだろ。なんだか家族じゃないみたい」と言われました。家族を想っての自分の言動だと思っていたのに、辛かったです。母の言葉が突き刺さりました。

介護の時期は例えそれまで仲良しの家族でもバラバラになる試練が課せられると思います。
でも、試練だから乗り越えた先があってほしいし、あるはずだと信じたい。そして、乗り越えた先に何かを得た利用者さん、ご家族たちを現場でみてきました。

私の記事で何かをお届けできたならば幸いです。
Posted by kinsan at 2013年01月13日 10:05
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