孤独死の論点整理と違和感

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孤独死の論点整理と違和感

2013年1月12日

先日NHKの「孤独死」に関する特番を見ました。近年増加している孤独死を社会問題として取り上げていました。
番組内では視聴者の声が紹介されていました。その中で特に私が気になったのは次のような声です。
「孤独死を悪く扱う風潮はやめてほしい」
「一人の何が悪いんですか!?」
というもの。

私はこのような声を聞いて「一人が悪いとは言わないけど、嫌ではないかな?」と思いました。
介護福祉士の仕事をしていると、独居の方と接する機会があります。彼らは一人の自由を謳歌している時もありますが、健康を損ねてからの晩年は一人の不安や苦しみに襲われているように見える方が多いです。だから単純に孤独死は問題だよなぁという印象を抱いたのです。

しかし、家族がいても満たされていない人はたくさんいます。
また、高齢化、未婚、熟年離婚、子どもがいない夫婦、核家族化など、人生の晩年を一人で過ごす可能性がある人は今後ますます増えていくと予想されます。
そうすると孤独死もある程度スタンダードになってくるはずです。つまり、孤独死を問題扱いするのはやめてほしい!一人でもいいじゃないか!という声が寄せらことは当然なのかもしれません。


でも、何か漠然とした違和感を抱いたので、孤独死について考えてみたいと思いました。
Facebookに投稿したところ、色々なご意見を頂き、孤独死に関して、色々な視点が混在しているのだと実感しました。

ですから今日は、
『孤独死(孤立死)の定義と関連する要因の検証及び思想的考究と今後の課題』
という論文を参照、引用して、孤独死についての論点整理と、私の抱く違和感について書いてみたいと思います。


まず、『孤独死はマスコミに作られた造語であるという指摘の通り、学術的・統計的検討がなされていないため、その定義をめぐっては様々な解釈がなされている』そうです。

一応、大辞林では「孤独死とは、誰にも看取られず、死亡すること、特に一人暮らしの高齢者が自室内で死亡し、死後しばらく経って初めて遺体が発見されるような場合についていう」と定義されていますが、確かに、明確な定義とは言えず、多義に捉えることができますし、例外も多そうです。


≪孤独死の共通概念とリスク要因≫
この文献では孤独死に共通する概念について
@『誰にも看取られない死』 A『死後長時間の放置』
を基本とし、文献データからこれらのリスクを高める要因を挙げています。
『男性 (明確には現時点では言えないが)』
『前期高齢者』
『独居歴10年未満』
『親族が無い』
『交流が全くない』
『居住年数が5年未満(3年未満)』
『近隣との交流が全くない』
『不慮の死(入浴死、焼死、転倒転落、窒息等)』
『突然死(心疾患等)』
『緊急措置がない』
『自宅』
との関連を上げています。
近年は『無職』が新たなリスク要因になるとも分析しています。


≪孤独死の定義に関する検討≫
・発見場所は『自宅(敷地内)』であるということが妥当
・看取りが無いこと(=異常死扱いになる)は孤独死の基本概念を構成する要件と言えるだろう
・独居であることは孤独死のリスクを高めることにはなっても十分条件ではないと言える
・孤立や交流の程度は孤独死に大きく関わっている
・自殺は別の統計があり、孤独死は「異常死」として扱われるため、自殺は孤独死に含めないことが妥当。


文献では孤独死について2つの類型化を提案しています。

1『生計・生活が通常で、特別な支障はなく、また社会的にも孤立することがなく、常時他者との交流を維持していた独居高齢者が、居住する場所で心疾患等の急病で突然死する場合』

2『他者との交流が希薄であり、社会的に孤立し、生計上の問題を抱えた中・壮年者、高齢者が劣悪な生活環境の状況で、突然死(病死)に至るか、あるいは自殺した場合』

このような類型を明確にして多様な方向から研究、防止対策などを講じていくべきだということです。

ここまでからわかるように、孤独死は多様な要素が複雑に絡み合いながら発生しており、またその状況によって一概に孤独死と定義することは難しいことがわかります。内容が入り混じり、それぞれの立場で孤独死に関する意見を交わすと、建設的な話し合いにはなりませんね。


次に文献中での研究者の言葉として興味深いものを掲載してみます。

阿部志朗
『孤独には耐えられても、社会的孤立には耐えられない』という思想がヨーロッパにある。そこで孤立から守る社会的システムをつくることに、ヨーロッパは力を注いできた。ところが、いかに社会福祉が充実して社会的な孤立から免れたとしても『孤独に耐える』という前提条件を必要とする。
→これは私が冒頭で述べた、介護現場で健康を損ねた利用者の不安や苦しみのことを言い当てているように思います。また、社会的システムだけでは家庭内の孤立を避けることが難しいということも見えてくるように思います。


山口光治
『一人で自宅において亡くなることが問題であるというのではなく、その亡くなるまでの過程で、もし仮に支援が受けられたならば死に至らずに済んだかもしれないという状況があるとすれば、そのことが問題にされなければならないのです』
→これは冒頭のNHKの番組に寄せられた視聴者の声、孤独=悪ではない!という主張のある一面を言い当てているように思います。

2010年に放送されたNHKスペシャルにおいて『無縁死』という言葉が登場しています。ここから次のような問題提起がなされていました。

『死者が死後どのように対応されたかは、死者の全人生の集大成として重要であり、それは死者の人権と尊厳にかかわる問題である。「孤独死」「看取られない死」が「無縁死」となるか、「悼まれ、名が明かされ、人々の記憶にとどめられる」かは、精神的主体、人格の主体としての人間にとって大きな問題である』


冒頭のNHKの番組に寄せられた視聴者の声に対して私が漠然と感じた疑問の一つの答えはこれなのかもしれません。
つまり「なぜ孤独死は問題であると捉えられているのか」という疑問です。

日本は基本的人権が保障されている国です。これは生きている間だけ保障されるものではなく、死や死後も一人の人格として尊重されてこそ、本当に保障されていると言えるのではないかと私は考えています。
自分は死んでしまえばあとは関係ない、死んだ人間はもう関係ない、ではなく、人間が歴史を紡ぎ、文化を伝え、子孫や生きた証を残す。この継承が積み重なったものが人類なのではないかと思います。
それが「死んだら関係ない」という無縁社会になっては、人類の生きた証そのものが断絶してしまうのではないかと思うのです。
そこに、「孤独死が問題だ」といわれる一つの答えがあるのではないかと思います。


視聴者の声は、主に独身であったり、自分の晩年に孤独死をえがく可能性がある方からの「自分の人生や生き方を問題だと言うな!」という声として主張されているように思います。
私はもしそうであれば、その主張は正しいと思います。
ただ、孤独死ということの本質的な問題を取り上げずに、「死んだら関係ない」「別に一人で死ぬ人がいようが自分は関係ない、どうでもいいじゃん」というような行きすぎた個人主義からくる主張であれば問題ではないかと思います。

近年は、他人に迷惑をかけたくない、気を使いたくない、自分のペースを乱されたくない、という良くも悪くもとれる個人主義が広がっていると感じています。将来介護ロボットに介護されることを肯定する人が8割というニュースも目にしました。
確かに、他者に対して申し訳なさを感じたり、気を使うことは避けたい事です。
しかし、それらがすべて取り除かれ、要介護状態になってもお金も、日常生活も、ありとあらゆるものが他者に気を使わないオートマチックになることが、果たして本当に望まれるべきものなのでしょうか。

悪いね、ありがとうね、いいえ気にしないで、お互い様ですよ

こんな持ちつ持たれつの支え合いの中に人が人と紡ぎ合う生きた証があるのではないでしょうか。それは否定してはいけないのではないかなと思います。


実際の要介護状態に自分がなっているわけでもない、要介護状態の両親がいるわけでもない。健康な若造が達観したことを述べているだけとも言えます。自分がそうなった時に同じ綺麗ごとは言えないと思います。
でも、私はたくさんの利用者さんやご家族の生きざまを見せて頂き、この仕事を通じて、今このように思っているのは紛れもない事実なのです。

それを書いておくことは、未来の自分へのギフトでもあると思っています。

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この記事へのコメント
孤独と孤立は微妙に違いますよね?

孤独を愛する人はいますし、私もその一人です。
が、孤立は外との繋がりが途絶え、隔離された状態もしくは、忘れ去られた感じでしょうか?

兄弟が孤独死した者としては、発見し、送る者が居る間に亡くなったことを良かったと考えるようにしています。

今後母を送ったら、私が一人になり、恐らく孤独死、亡くなった時点で無縁仏ですから、永代供養までしておこうと決めていますよ。
亡くなっても線香1本、花の1輪も供えてくれる人がいない者の覚悟ってわかりますか?

人の死までとやかく言わなくてもいいのでは?と思います。
少子化で当然のことながら、孤独死や無縁仏が増える時代です。
子供がいても死んだ遺体を引き取らない時代です。
死んだ親の年金目当てで、死亡届を出さない時代です。

あなたの考えを本当に伝えるべき相手は、親を無縁仏にしてしまう子供たちではないでしょうか?
人生をリセットできると思っているような世代へ向けて、発信して下さい。


>悪いね、ありがとうね、いいえ気にしないで、お互い様ですよ

介護の仕事をしている人を立派だと思っていますが、金で動く人と見ています。
金で取引されたサービスに、この言葉は似合わないと思いますよ。

>たくさんの利用者さんやご家族の生きざまを見せて頂き・・・

生きざまなんて見えますか?(笑)
あなたが見たと思ったものは、ほんの一面ではないですか?

あなたが母のケアマネさんで、何年付き合っても、息子が孤独死した、娘が持病が有り苦労している事なんてわかるはずではないですよね?
それを気付きますか?あるいは聞き出せますか?

人様の生きざまなんて、絶対に見えるものではありません。
おこがましいです。
Posted by mon2monjp at 2013年04月23日 02:32
mon2monjさん、コメントありがとうございます。
私が書いたことに関してお気持ちを害されたことがありましたらまずお詫びいたします。申し訳ありませんでした。

この記事を書いた私は、普通の家庭に生まれ、普通に育ち、大きな怪我や事故、病気もなく、両親も今のところ元気で、仕事に就き、家庭を持ち、日々を送る者が、その生きてきた過程で知り得たこと、考え得たことの範囲内において書いたことです。
ですから、その限られた範囲で考えたことや主張は、私と違う人生を歩まれた方にとっては受け入れられないこともあるでしょうし、反発されることもあるでしょう。それは事実ですし、否定できません。

ただ私はこう考えるということを書きました。この考えを押し付ける気もありません。

ただ、私が肝に命じていることは、私とは違う人生を歩んでこられた方、環境下にいる方がいらっしゃる、私とは違う価値観や考え方を持つ方がいらっしゃる!ということです。この方々の本意は私は理解できるはずがありません。というより、他人をわかるなんて不可能なことです。

ですからmon2monjさんが「わかりますか?」と書かれた箇所は、私にはわかりません。
mon2monjさんが書いてくださった身の上のことと、コメントから、mon2monjさんの怒りや、悲痛な気持ちを自分の中で想像することしかできません。

これが今の私です。

確かにmon2monjさんがおっしゃるように、私が見てきた利用者さん、ご家族のみなさんの生きざまはほんの一面にすぎないと思います。もちろん何も見えなかった、見せていただけなかった方々だってたくさんいます。しかし、私が一面でも見せていただけたと感じていることは事実です。勝手に私が感じていることかもしれませんが、それは否定されたくない。大切な経験です。
生きざまを見せていただく、という表現が大それたものであるならば、経験、の一言でも良いかもしれません。

でも、こうしてmon2monjさんがコメントして私に教えてくださったことも、私の中では、私の知らない唯一の生きざまをみせていただけたことです。他の記事にコメントくださったように、ややもするとご家族を傷つける介護職に気づきを与えてくださる、貴重な声です。
大変失礼な物言いにとられるかもしれませんが、mon2monjさんの経験されていることを私のブログに書いてくださったことは決して無駄ではなく、私にとっては貴重な経験なのです。ですから感謝しています。

いつか私の両親が介護が必要になり、mon2monjさんの今の気持ちが少し感じられる時がくるかもしれない。こないかもしれない。
今私がmon2monjさんに応えられることはこれが限界です。私にはこれ以上今のmon2monjさんの声に応える経験も術もありません。本当にごめんなさい。
でも、今この瞬間の出会いで、私がいただけたものを私は大切にさせていただきたいと思います。ありがとうございました。
Posted by kinsan at 2013年04月23日 13:43
返信、ありがとうございます。

私は決して特別な環境化の中で育った人間ではありません。

普通の両親と普通の兄弟がいて、ただ私自身は持病が有っただけで、その為子供を産む事が出来なかっただけ・・・兄弟が、たまたま不審死を遂げただけ・・・すべて受け入れてきたし、時間が解決してくれた部分もあります。

それを生きざまと言うのかどうかわかりませんが、起こった事を淡々と胸の内に片付けてきただけです。
父の介護、兄弟の介護、母の介護・・・家族すべての介護を経験してきましたが、今の介護は本当に辛いものです。

終りのない介護・・・徐々に出来なくなる事が増えていく絶望感。

あなた方介護職を侮辱した訳ではなく、時間から時間で終わる仕事の介護と家族の介護は全く別物だと考えています。

(プロとしての責任があるのはわかっていますが、)肉親のような責任も義務も負わないで良い介護なら、私も笑顔でできます。


今日、母がディケアで入浴して戻ってきましたが、下着もパットも取り替えずに戻ってきました。
初めてではありません。
別のディサービスでもありました。

これをどう考えられますか?
すべての人を見る事ができないから?

私がディで希望するのは、きちんとした着替えと運動くらいで、それ以外は何も求めていません。
それすらできないのは、レベルが低いからでしょうか?(素朴な疑問です。)
あなたのような方がいらっしゃらないからでしょうか?(嫌味ではありません。)

ディから戻ったばかりなのに、身体を拭き、下着を取り替えねばならない瞬間、利用料が無駄だと思いましたし、なんとも言えない疲れと嫌悪感がわきました。

そしてすべてに対しての憎悪。


>勝手に私が感じていることかもしれませんが、それは否定されたくない。大切な経験です。

あなたを否定してはいません。
本当に真面目で優しい方だろうと推測します。

ただ、勝手に感じた事=思いこみってことはないでしょうか?
相手が合わせてくれていると思った事はないですか?

介護職という仕事は、人様の最期に近い時を寄り添う仕事です。
そんな大切な仕事だからこそ、一歩も二歩も引いた謙虚さが必要なのでは?と思います。

母の場合は、ディでのストレスをすべて家へ持ち帰り、私へ当たります。
ディがなければ良いのに・・・と思う方が多いです。

>いつか私の両親が介護が必要になり、mon2monjさんの今の気持ちが少し感じられる時がくるかもしれない。こないかもしれない

不幸にもご両親様が認知症になられた時、初めて気付くことがあると思います。
仕事の介護と肉親の介護の違いが、はっきりとわかることでしょう。



長々と書いてしまい、申し訳ありませんでした。

どうぞ、お仕事の方、頑張ってください。






Posted by mon2monjp at 2013年04月24日 04:31
mon2monjpさん、コメントありがとうございます。遅くなりごめんなさい。
私たちの仕事は尊く崇高なものだと揶揄されることもありますが、その実はまだまだレベルの低いものが横行しています。私とて完璧ではなく、知らずに傷つけてしまった方もたくさんいるでしょうし、良かれと思ったことが裏目に出たり、数えきれないでしょう。。。
若輩者ではありますが、数百人ほどの利用者さんと接してきました。自負がある部分もありますが、それ以上に自分の無力さや不甲斐なさを痛感もしてきました。
わかっています、といえるものではありませんが、本音を見せず、私たち介護職に気を使い続ける方々がいることを存じているつもりです。傲慢で奢っていた頃もありました。天狗の鼻をへし折られて恥をかいたこともありました。全て利用者さん、ご家族が教えてくださったことです。

家族介護と仕事としての介護は全くの別物です。。。そして私にはわからないこと、気づかないことがある、ということを忘れません。

お返事らしいことは何も書けませんが、mon2monjpさんに少しでも報えるような介護職になれるよう精進いたします。
Posted by kinsan at 2013年04月28日 12:38
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